Ａｃｔ．１５ 新たな課題
「わかった、それで進めてくれ」
社内の各部長を集めたプロジェクト審議会で、一樹の説明を受けた主座の高見沢専務はＧＯサインを出した。
一樹は、黙って頷き、一礼してから“お立ち台”から降りた。
事前に高見沢専務の了解を得ている内容ではあるし、プロジェクトの性質上、急がれこそすれ、否定され、足止めを喰う事はあり得ないのだが、それでも緊張はあった。説明を終えた一樹が、席に戻ると安堵の溜息と共に、汗がどっと吹き出した。
ともかく、これでプロジェクト・ゼロは次のステップ……増加試作機製作に向けてのモデル決定と、量産に向けての準備検討のＧＯサインを得たのだ。
増加試作機は、３体を予定し、それぞれ、異なるモデルでの製作を計画していた。
増加試作機は、市場トライアルも予想され、外形公表もあり得るので、肖像権の問題をクリア、モデルからきちんと外形使用承諾を得ないといけない。
その決定に向けては、営業から法務部門まで様々な検討が必要だった。
量産に向けての準備検討も、エクスロイドを構成する全ての部品を網羅したパーツリストを整備する事から始まり、新規部品の明確化と、その製作メーカーの決定。更に、部品コストを算出した上で、製作コストが目標に収まるかどうかの検討も進めなければならない。
営利企業における商品開発とは、モノを作って終わりなのではなく、むしろそれからが始まりなのだ。
だが、それは同時に、日常的にやっている事でもある。
プロジェクト・ゼロは、ここに至って未知の領域に挑む前人未踏の冒険から、日常のルーチンワークへとその色合いを徐々に変えていった。
プロジェクト・ゼロの業務が徐々に商品開発業務へと進んで行く中で、取り組むべき課題は未だ多くあった。
そのひとつが、エクスロイド・タイプＳＸの衛生問題であった。
売春にまつわる不安要素のひとつが、不特定多数の相手と性交している娼婦からの性病及び性行為感染症感染である。
勿論、エクスロイドは人間ではないから、性病に罹患する事はない。こうしたクリーンイメージを強調し、感染の不安を払拭出来れば、従来型のセックスサービス産業に対し、大きなアドバンテージが得られる。
ただし、エクスロイドが性病に罹患しないとは言っても、エクスロイドそのものや、設備などを媒体とした感染の危険は考えられるので、考えられる対策は打っておく必要があった。
これに関しては、試作機の衛生管理を行う古池から問題提起がなされ、その後、診療所より特機２課に異動して来た看護師の美保が中心になって作業を推進していた。
開発に携わりたいと希望を出して異動して来た美保の取り組みは精力的で、エクスロイドの自動洗浄機の改良や、実験室の衛生管理法の改善などが図られ、商品化された後の運用についても幾つかの提案がなされていた。
そんな中、美保から、既存のセックスサービス業の実態調査の提案がされ、ダグラス・トランプの知人の風俗チェーン店社長に話をつけて調査が行われる事になった。
「じゃあ、気をつけて行って来るように」
調査の日、一樹は美保に、月並みな言葉をかけて送り出した。
「はい。行って来ます」
さすがに、美保はちょっと緊張していた。風俗店など、普通の女性が出入りする所ではないから、それも当然だ。
平日の日中だから、そんなに危ない事もないのだろうけれど、万が一の事があってはいけないので、一樹は護衛役として中崎に同行するように指示をしていた。
「中崎君、よろしく頼む」と、一樹は中崎に言った。「彼女をしっかりガードしてくれ」
「はい」
短く答えた中崎の表情が紅潮しているのは、調査の緊張だけではない。無骨な中崎にはつき合っている彼女はおらず、美人の美保と２人で出掛ける事を内心で喜んでいる事は見え見えだった。
「おふたりさん、お似合いだ」
と、横田が茶化すと、美保よりも、中崎の方が狼狽して赤面した。
――確かに、こうして並ぶと確かに似合っているかな、と一樹は思った。
看護師だった美保は、制服のある職場で働く女性にありがちな事なのだが、私服が華美な傾向にあった。今日も、長けの短い身体の線が露になるニットの黒いワンピースに、ゴールドのアクセサリーと言う出で立ち。隣の中崎は、貫禄を出そうとしたのか黒のスーツだった。長身で、ボンバーヘアの中崎のスーツ姿は、妙な凄みがあった。
悪く言えば、風俗嬢とヒモのヤクザと言った所で、どう見ても上場企業の開発エンジニアには見えない。
少なくとも、風俗店に出入りして不自然な感じはなさそうだ。これも変装の一種と考えれば上等だな、と、一樹は苦笑しつつ思った。
性行為感染症は、売春行為を廃絶出来ないのと同様、先進国においても、なかなか廃絶出来ない問題であった。
確かに、梅毒や淋病と言う古くから知られる性病の類はなりを潜め、ＨＩＶも日本を始めとする先進国では、コンドームの普及により封じ込められてはいる。
しかし、クラミジアなどの細菌感染症は、女性の自覚症状がない場合があり、また、フェラチオなど、擬似性行為によるセックスサービスで感染する事もある事から、感染の拡大を食い止める事が難しい状態となっていた。
実際、日本においては、２１世紀に入ってからもクラミジアなどの指定性病以外の性行為感染症の感染者は増加傾向にあり、２０代女性においては、感染率が１０％を越える状況にあった。
そうした状況を踏まえると、美保の調査結果は意外なものだった。
風俗店で働く女性たちの感染率は、特にソープランドの場合、一般女性よりも小さかったのだ。
「要は、彼女たちは“プロ”なんですよ」
と、美保は言った。
プロフェッショナルである故、自分を傷つけ、常連客を潰してしまう感染症に罹患する訳にはいかない。
店としても、定期検査を義務づけ、その結果を、警察なり保健所なりの監督官庁に提出していた。
客の性器や口腔を洗浄・消毒し、シーツやタオルケットを頻繁に交換・洗浄するなど、衛生管理のノウハウについては見習うべき部分があった。
しかし、ファッションヘルスの方は、従業する女性が比較的若く、経験とプロ意識に欠ける傾向が強まるのと、設備上の制約から、感染症の罹患率が比較的高かった。
もっと危険なのが、所謂「援助交際」と呼ばれる一般女性の売春紛いの行為だった。特に、若年層ほど、感染症に対する知識がなく、感染者を拡散させていた。
これは、アメリカにおいても同様の傾向であり、１０代後半の不特定多数のセックスパートナーを持つ女性に限定すれば、何らかの性行為感染症に罹患している割合は最大２５％にも達するとの調査結果まであった。
結局、ここでも性モラルの低下が問題だと言えた。
天城恵なら、さらに突っ込んで、売春防止法によるプロフェッショナルの排除も要因のひとつに数えるかもしれなかった。
定例ミーティングで、美保の報告を聞いた一樹は、
「ご苦労さま。何だか、大変なことをさせてしまったかな」
と、労った。
「いいえ」美保は、はにかんだ笑顔を見せた。「いい経験だったと思います。それに、あらためてやりがいのある仕事だと思いました」
性器クラミジア症などの性行為感染症は、特に女性の場合、自覚症状に乏しく放置される事が多い。だが、結果として不妊症など重篤な症状を引き起こす事もあり、健康問題として決して軽視の出来ない問題だった。
タイプＳＸによるセックスサービスは、延いては、性行為感染症の拡大を食い止め、そうした問題の対策になる、と美保は考えていたのだ。
「そうか」
仕事に社会的な価値観を投影し、やりがいを求める美保の前向きな姿勢が、すれっからしの一樹にはまぶしかった。
「ただ……」と、美保は、綺麗に整えられた眉をひそめ、ちょっと口を尖らせて言った。「スカウトされちゃいました。『今の何倍も稼げるよ』って」
「失礼な話ですけど」
と、中崎が、少々の憤慨を込めて付け加える。
「ま、社交辞令のつもりだったんだろう」と、一樹は言った。「こっちのやってる事さえ言えれば、逆に『何倍も稼げるようにしてやる』と言い返せるんだが」
先行きが見えて来たので、一樹の口からは、そんな冗談も出るようになった。
「あ、そうだ。タダ券、貰いましたよ」と、美保が思い出したように言った。「中崎さん、『試して行きませんか、サービスします』って言われたのに断るから……わたしが貰っても使い様ないのに」
「何だ、中崎、エエ格好しいかよ」
横田が茶化すと、中崎が困ったように俯く。美保は、そんな中崎の様子を見て、楽しそうに笑った。
「じゃ、それ僕にください」
と、古池始め数人が臆面もなしに手を挙げ、チケットはあっと言う間になくなった。
美保の調査結果は、初号機の試験に次々に反映されていった。
シーツとタオルケットの交換は徹底されると共に、体液による汚れ具合をチェックしてデータ化。初号機のウェアの交換頻度も上がった。
また、性行為感染症については、その危険性を、古池が身を持って証明してしまった。
美保から貰った無料チケットで、横浜のファッションヘルスに向かった古池だが、不運にもクラミジアに被弾。
実機試験に際し義務付けられるようになった検査で、それが発覚し、全治するまで実機試験禁止を美保に命じられてしまったのだ。
もっとも、エクスロイドを介した２次感染は食い止められ、その衛生管理については、図らずも実効性を証明した形となり、美保に自信を持たせる事になったのは、思わぬ収穫だった。
しかし、実験担当が、実機試験も出来ない、と言うのは、まったくもって周囲に示しがつかない状態だ。
「タダより高いものはない……か」
試験禁止の期間中、古池はこぼし続けた。
一方、美保の私服が華美なのは相変わらずだったが、ある事件以来、ちょっとだけあらためられた。
事件と言うのは、季節柄、肌も露な格好でいた美保が、初めて試験に臨む実験部のスタッフにエクスロイドと間違えられて実験室に連れ込まれかけたのだ。
それ以来、美保は、仕事をしている間だけは、白衣を身にまとうようになった。
２号機及び増加試作機の試作準備は実験室の用意から始まった。
合計４機のエクスロイドを入れる為、実験室を増やさなければいけないのは勿論、問題なのは、言語対動作レスポンス機能用のコンピューターだった。
中央研究所で、最初にそのコンピューターを見た一樹が絶句する程の大きさだったのだ。
なにしろ、設置床が７ｍ×５ｍ、下手な一軒家の敷地並みの面積に、機器がぎっしりと詰め込まれていたのだ。
最終的には大きめの冷蔵庫程度に小型化する目標ではあったが、試験時にはメンテや追加変更の余地を残す為、そこまでの小型化は出来ない。
結局、実験室の一部屋をコンピューターの為に費やす事になり、今後の事も考え合計９部屋の実験室が、実験棟に新設される事になったのだ。
このコンピューター１機で、当面は８機、最終的には６４機のエクスロイドを制御出来る予定だった。
こうして、制御用のコンピューターを外部に出し、エクスロイド・タイプＳＸは、基本動作と通信制御用のプロセッサーと、各固体の個性を出す為の設定情報だけが搭載される事となった。
このシステムは、サーバー＆クライアントＰＣに例えると理解し易いだろう。
プログラムとデータベースはサーバーに格納され、クライアントＰＣはその都度、必要な情報をサーバーとやり取りする事で処理を行う。そして、クライアントＰＣに対するユーザーカスタマイズの部分が設定情報に相当し、これがクライアントＰＣに相当するエクスロイドの「個性」となる。
これで、どれ程の「個性」を生み出す事が出来るのか……２号機と増加試作機に向け、それを試してみる事になった。
設定情報を作製するのは、静佳の仕事だった。
「まず、実際にやってみないとわからないでしょ？」と、試験の前に静佳は言った。「で、初号機使って簡単なトライをしてみようと思って」
初号機には、モデルとなった彩名いずみの映像資料などから、静佳が動作の癖を作り出していたが、量産となるとあまり凝った事もやっていられない。そこで、動画を撮影してキャプチャーした情報から機体固有癖を作り出すプログラムを作り、実際にその効果を体感してみよう、と言うのだ。
動作モデルは、静佳と美保が務め、短い会話のシーンをキャプチャーした。本来ならば、様々な条件での動きを記録しておくのだが、今回は試験の為、ごく僅かな動作だけだ。
動作の差をチェックするので、エクスロイド自体はいじらない方が望ましいのだが、動作と直結するので、髪型だけは変える事にした。初号機は、ショートボブにしてあったのだが、静佳のデータを入れる時には軽くカールさせて癖をつけ、美保のデータを入れる時にはストレートロングのウィッグを被せた。
そして、短いシナリオに基づく会話を、それぞれ試してみたのだが、その違いぶりには、一樹も驚いた。
ほんのちょっとした癖の追加なのだが、それだけで、初号機が静佳になってしまうのは、呆れるを通り越して気味が悪いくらいだった。
「ほんと、大した変更はやっていないのだけど……」と、試験に参加した２課のメンバーを前に静佳は言った。「ほんのちょっとした癖を加えるだけで、随分と個性が出るでしょう？」
「具体的に、どんな所を変えたんだい？」
「話を聞く時の姿勢、手の位置、相づちと、笑った時のリアクションかな……これをビデオ撮りしてキャプチャして基本動作に載せてみたの。
物真似がそうじゃない？ちょっとした癖、それだけで、十分に”らしく”なるでしょ」
「ふーむ」一樹は唸った。「そうなると、モデルから外観をコピーするだけでなく、一通りの動作をモーションキャプチャーしておく必要がある訳か」
「多分、対面挨拶の部分だけキャプチャーしておけば足りるような気もするけど。あとはＢマニュアルもあるし。
あと、分析が進めば、組み合わせで出来るんじゃないかなぁ」
「組み合わせで？」
「うん、癖と言うのは、肉体的特徴と結びついている訳。
例えば、わたしがこうやって、髪をいじっているのは、癖っ毛がね、撥ねちゃってるのが気になるから。ドヤが髪をかき上げるのも、さらさらのロングヘアだから出来る事でしょ。
あと、わたしが笑う時、口元に手をやるのは、歯並びが悪いせいだと思う。出来れば、矯正したかったもの」
「なるほど。動作の個性は、肉体の個性が生み出す、か」横田が納得、と言うように手を打ち合わせた。「確かに、谷間がなきゃパイズリは出来ないものな」
と、余計な事を付け加えた。
「え」
と、呟いて、静佳は胸元に視線を落とした。
「横田ーっ」
と、困ったように言って、一樹は注意を促した。
「あ、失礼……」
横田は、照れ笑いをして、頭を下げた。
静佳は、気を取り直して続ける。
「まず、ホクトの持っている動作プログラムと体型や肉体的特徴の相関取って、それぞれの固有癖の統計を出し、それを元に、デフォルトの基本癖を製作しようと思います。
それ作っておけば、その組み合わせだけで、充分に個性を出せるし、それに更にモデルの動作情報を入れれば、かなりの個体差をつけられるんじゃないでしょうか」
「同じいづみでも、これだけの差が出せるのであれば、期待出来るんじゃないかな？」
と、横田が応じた。
「そうだな」と一樹も頷く。「その辺りは、増加試作機で実証してみるしかないだろうけど、時間のかかりそうな内容だけに早め進行で行こう。増加試作機の型取りの際に、合わせて動作キャプチャーもやってしまいたいな。
黒木さん、忙しいだろうけど、よろしく」
「はいっ」
季節は早くも夏にかかろうとしていた。
今年は、花見をやっていないな、と思っていると鯉のぼりが泳ぎ出し、何だか湿っぽくなったな、と思ううちに梅雨になり、夏がやってくる。
時間に追われる開発の仕事においては、そんな季節の移り変わりよりも、進捗管理表の埋められた升目の方が、時の経つのを感じさせてくれる。
途方もない壁に取り付いた感のあった昨年に比べれば、先の見えた分、精神的負担は減ったが、一樹は別の種類の忙しさに翻弄されていた。
５月には、エクスロイド・タイプＳＸによるセックスサービス事業を行う新会社「トランプ」が、ティナ・モールトンをＣＥＯに据えて発足。
正式契約が取り交わされ、初年度３００機、次年度５００機の発注が行われた。
契約の販売価格は、１機５０万ドル。コントローラーが１セット１００万ドル。
昨年度のエクスロイドの生産累計が約２８００機だったホクトにとっては、純増となるこの発注は大きなビジネスではある。
だが、この契約内容は一樹を大いに悩ませた。
どう考えても、利益が出そうにないのだ。
一樹の手元には、エクスロイド・タイプＳＸの構成部品原価が集まっていた。それを累計すると、部品原価だけで優に３０００万円を越える。
タイプＳＸの場合、タイプＳとは異なり、１モデルごとに１０機は同じ機体が作られる事になっていたから、外形型の償却費は少なくなる。ただ、手間のかかる仕上げが要求されるので、製造に関わる費用は増大するし、ＳＸ専用の装備も少なくない。
その辺りを考慮すれば、儲け抜きで１機１億円に近いタイプＳに近い価格で売らなければ到底利益は出ない。
タイプＳは、機体で儲からなくても様々なメリットが期待出来るし、タイプＡは、機体よりも、その後の演出ソフト販売で稼ぐ商売だ。それに対し、タイプＳＸは、基本的に売り切り商売になる。機体と、コントローラーで稼がなければ利益は出ない。
しかも、コントローラーに入っている「Ｂマニュアル」は、ダグラス・トランプ秘蔵の文書で、契約もあり、タイプＳＸは、絶対にトランプ以外には売れない。
５０万ドルの機体を２年で８００機……これは確かにかなりの規模のビジネスだが、儲かる見込みのない契約内容でしかないのだ。
一樹は、その辺りを契約に関わった三崎に訊いてみた。
「大賀君は、幾らにすべきだと思うんだ」
一樹の疑問に、三崎は逆に質問を投げ返した。
「外製投資額を含む原価ベースで見たとして、７０万ドル以上は貰わないと商売にはならないでしょう。開発投資、内製投資額の償却を考えたら、幾らになるか見当もつきませんけど」
勿論、一樹は、プロジェクト・ゼロが今まで使った開発費の金額を知っている。三稜化学へ支払った委託研究費を含め、既に二十数億に達している。
裏仕事の得意な一樹だけに、投入する人員も機材も絞り、開発費は圧縮して来たのだが、それでも、１機試作すれば数億の金額が飛ぶエクスロイドの開発は金のかかるものなのだ。
また、言語対動作レスポンス機能についても、８年に及ぶ開発期間を考えれば、いくら研究業務とはいえ、相当の費用が注ぎ込まれている。これも先行投資と考え、回収するとしたら莫大な金額が必要だろう。
そして、年間５００機のエクスロイド生産を純増させる、と言う事は生産工場の能力増強を図らないと出来ない。恐らくはここでも億単位の投資が必要なはずだった。
「だろうな。この台数で利益出そうとしたら、１機１００万ドルは欲しい」
「それを何故？」
「戦略価格、と言う所かな」と、三崎は言った。「それと、トランプ側の都合を考えてみるといい。発注契約を結ぶとなると、それなりの金額を振り込んでもらわないとならない。だが、現状、準備段階で収入のないトランプ・コーポレーションに金はない。借金をしなければいけないんだ。そこで、発注台数と価格を意図的に抑え、契約時の支払い額を少なくするのさ。この金額になると、借入金の利子だってバカにならないからな」
「それでは、トランプが想定している台数はもっと多い、と？」
「ああ。少なくとも２年目には１０００機を要求してくるはずだ。まだ公にはされていないが、それに応じる為に、１００億円規模の設備投資が予定されている」
「それは――」
一樹は息を呑んだ。
「そう、工場をもうひとつ作る規模だ。そのつもりで、川崎工場に隣接する土地の購入も進んでいる」
「そこまで……」
一樹は絶句した。自分の予想以上の展開に言葉がない。
「まぁ、ここから先は、あまり、大賀君の心配する事じゃない」と、三崎は諭すように言った。「ビジネスの部分は、こっち（本社）の方に任せてくれよ」
それで、ひとまずは引き下がったが、一樹は別の疑問も抱いた。
エクスロイド・タイプＳＸを、どのようにして売るのだろうか、と言う事だ。
勿論、売春と言う行為に対する需要が膨大なものだ、と言う事は判っていた。
日本だけでも、恐らくは数十万人の女性が、売春ではないにせよ、性を売り物にするサービス業を仕事としているはずだから、例え、その１％をタイプＳＸが代行するだけでも、数千機の需要があるだろう。先進国全体を相手にするなら、その数はヒト桁上がる。年間数千機程度を売るのは難しくはない事のように思える。
ホクトとしては、その膨大な潜在需要を見越して、ダグラス・トランプの注文を引き受けたに違いない。そして、実際にタイプＳＸを使っての営業は、こうした仕事になれているダグとティナが、トランプ・コーポレーションとして引き受ける事になっているのだろう。
しかし、決して営業向きではない一樹の頭では、どう考えてもタイプＳＸを大きなビジネスとして成立させる為の方法を思いつかなかった。
いかに、性に対する考え方が自由になったとは言え、売春を始めとする性風俗業が尊敬を得られる職業になった訳ではない。
歴史的にはどうあれ、現代では、あくまで日陰の稼業なのだ。
従って、例え莫大な資金力を投じたとしても、どれほどの事が出来るのか。一樹は懐疑的であった。
一樹には、大熊社長が何を考えているのか、どうにも判らなかった。
増加試作機のモデルが決定したのは、夏休みも明けた頃だった。
増加試作機は、社外公開や、初期の市場トライも考えられるので、肖像権関連の問題があった。
結局、ホクト手持ちのデータを使用する事は、取得時の契約内容を違える事になりかねないので断念し、新たに肖像権込みでデータを取得する事になった。
３機のうち１機は、白人女性、２機は日本人モデルで製作する事となった。
いずれにしても秘匿性を配慮し、白人女性は、ダグラス・トランプから売れっ子コールガールを幾人か紹介して貰ってその中から絞り込む事にし、日本人モデルは芸能プロダクション経由で、ＡＶ女優から選ぶ事になった。
都合、１０人ほどのモデル候補を選んだ後、今回は、特機２課も加わり、オーディションらしき事をやって３人を決めた。
３人共、管理事務所と守秘契約を結ぶと共に、目的を伏せたままで外形使用を承諾させた。契約料金は高額になったがやむを得ない。
そうして選んだ３人は、それぞれ違った個性を持っていた。
ひとり目は、イギリス系白人の「ローラ」。身長１７０cmのどちらかと言うとスレンダーなタイプ。そして、身長１５９cm、ぽっちゃり型グラマーの「まい」、それから身長１５５cm、小柄でほっそりした「みれい」。
これに身長１６５cm、肉感的グラマーのいづみを含めれば、かなりの範囲の身長と体型をカバーする事が出来るだろう。
３人共仕事柄、性交時を含む動作キャプチャーを了解してくれたし、それに加え、ローラは、Ｂマニュアルをマスターしているので、動作検証にもなりそうだった。
モデルが決定した事で、一樹は２号機の完成を待たず、増加試作機の設計を進めていた。
確かに、２号機の組立と評価結果によっては、設計変更が加えられる可能性もあるが、日程的にはその結果を待っていては成立しないし、体型や身長差を吸収する為、どのような構造にしてモジュール化を図るかなど、この時点でなければ対応出来ない事も少なくない。
だが、今は機体の設計よりも、知識ベースと、言語対動作レスポンス機能のシステム構築の方が日程上大きな問題になっていた。
こちらの推進は、横田に任せてあるので、一樹としては、商品開発業務の経験がなく、日程の意識が薄い中央研究所の研究者の動きにやきもきしながら見守るしかない状況だ。
営業的な部分は、三崎から本社サイドに任せろ、と言われているし、量産に向けた原価検討や、購買業務もそれぞれ専門部署に任せるしかない。
ここまでプロジェクトが大きくなってしまうと、所詮、開発部門の一中間管理職でしかない一樹に出来る事は限られて来る。今までのようにがむしゃらにやってどうにかなるものではなく、組織の中にはまって仕事をする以上、誰かに任せ、あとは「待ち」の姿勢になるしかない局面もある。今が、丁度、そうした時期で、一樹は多少なりとも一息つける状況になっていた。
そうして、精神的な余裕が出来ると、あれこれと先の事を考えるようになる。
（それにしても、タイプＳＸを発表する時にはどのようにするのだろうか？）
タイプＳＸ以上に公に出来ない、その存在すら隠されたタイプＳの仕事も多くこなして来た一樹だけに、技術者の仕事が、公にその成果を誇る事が出来るようなものばかりでない事は承知している。
顧客に喜びを与え、会社に利益をもたらす、と言う結果が得られればまだしも、自己満足で終わらせるしかない仕事も少なくはない。仕事と言うのはそう言うものなのだ。
それでも尚、ここまでやって来て、手応えも掴んで来ると、自分たちの成果を世に問いたくもなる気持ちも出て来る。
もっとも、日陰稼業のセックスサービス、しかもタイプＳＸは、トランプ・コーポレーション以外に売りようもないのだから、大々的に発表するようなものではないだろう。
だが、それでもトランプ・コーポレーションが営業を始めれば、メーカーとしてのホクトの名は出さざるを得ないし、場合によっては、ホクトだけでなく、アイチ自動車をも巻き込んで、その名前を汚してしまいそうな気がする。
人間と言う不思議な動物は、自分自身が生まれて来る為に必要不可欠だった性や、性行為を何故か不潔視する傾向があるからだ。
ホクトの企業イメージはともかく、開発者に対する視線も問題だろう。
一樹自身は、多少の事は気にしないつもりだが、特機２課、そしてプロジェクト・ゼロに携わった人間全てがそうともいかない。妻子ある横田や、独身女性の静佳や美保は、マスコミに無遠慮に興味本位で取り上げられたら、私生活に重大な影響が出兼ねない。
少なくとも２課のメンバーについては、一樹が守らないといけないだろう。
これは、慎重に当たらなければならない課題だった。