Ａｃｔ．１２ Ｂマニュアル
「これがそうですか」
一樹は、Ａ４版の分厚いファイルをダグラス・トランプから受け取って、びっくりしたように言った。これほどのボリュームがあるものとは予想していなかったからだ。
深紅の表紙には、
「Ｂｅｈａｖｉｏｒ Ｍａｎｕａｌ ｂｙ ＭＡＤＡＭ ＤＵＲＡＮ」
と、金色の飾り文字が入れられていた。
一樹は、ざっとページを繰ってみた。
文章による説明だけでなく、挨拶から始まって、客の前での着衣の脱ぎ方、キスの仕方、性交時の体位や、身体の動かし方などの詳しい図解や写真も含まれている。しかも、全ての記述が男性中心なのが目を引いた。
考えてみれば当然の事なのだが、普通の性技術書と違い、娼婦訓練用のマニュアルともなれば、女性側の受ける快感については一切無視、男性である客を喜ばせ、満足させる技巧が第一なのだ。
一樹は、なるほど、これではいくら稼げる商売とは言え、適性の高い志望者が減るのも当然、と思った。
これをマスターした女性が、男性にどのようなサービスを提供出来るかは体験していたが、それがこうしたマニュアルによる徹底した教育と訓練の賜とは思っていなかったのだ。そして、これは上手く行きさえすれば、これは存外、ロボット向きの仕事なのかもしれない、と言う気がし始めた。
「それは、我々がＢマニュアルと呼んでいる文書だ。門外不出の極秘文書なんで、慎重に扱ってくれ」
ダグラス・トランプは、更に１枚のカードを出した。
「実際の訓練に使うのは、こちらのビデオだ。最近の若い子は文章を読もうとしないからな」
と、ダグは苦笑した。
「日本も同じだ」
大熊も相づちを打つ。
「これも、同様に極秘の貴重品だ。くれぐれも取り扱いには注意してくれ」
「そんな貴重なもの、ここで渡されても困るな。明日、うちの会社に来る際に、君かティナが持って来てくれないか」
大熊は、いかにも遠慮のない間柄らしく言った。
「そうだな、そうしよう」
ダグは、一樹からファイルを受け取ると、カードと一緒にしてティナに渡した。
「これを、私の部屋の金庫にしまっておいてくれ」
ティナは、頷いて立ち上がると、叔父の部屋のルームキーを持って出て行った。
ダグとティナは、今日の午後、東京に着いたばかりで、ホテルの特別室を借り切り、大熊と高見沢、それに一樹の３人を招いて、夕食を共にしようとしている所なのだ。
この招待を受けた時、一樹は一度は辞退した。将軍たちの宴席に、下士官がひとりで同席するようなものだからだ。だが、開発主務者であり、ダグを日本に呼ぶ事を依頼した張本人である一樹が、歓迎の宴席に来ないでどうする、と高根沢に説得され、渋々参加する事になったのだ。
すぐにティナが戻って来た。一樹の隣に腰を下ろす。
「あのマニュアルを使って、ズブの素人の女の子を、客の前に出せるように仕立てるのに、どのくらいかかるんだ？」
大熊が尋ねた。ダグは、首を傾げる。
「一概には言えないな。機械操作のマニュアルのように手順を覚えればよい、と言うものではなく、鍛錬を必要とするものだからな。その中には、男を喜ばす為、その気持ちを読む、と言う事も含まれる。
元々、他人の気持ちを察するのが上手い子なら、２週間の基本カリキュラムをこなせば仕事がとれるが、駄目な子は何ヶ月もかかるし、それでも駄目なのがいる。
最近は、自己中心的で、他人の気持ちを汲み取れない若い子が増えたから、エリミネートしないといけないのが１０年前の２倍に増えた。それに、マスターした子たちもレベルが下がっていてね。まぁ、タマ数揃える為に、ボーダーラインを引き下げているのもあるんだが……
だから、何と言ったっけ、新しいエクスロイドには大いに期待しているのだ。成功すれば、これは儲かるだろうからな」
「Ｂマニュアルが、突破口を開いてくれるといいがね。大賀君、ざっと見ての印象はどうだね」
「思っていたよりも詳細に説明されているので驚きました。データベース化する作業は大変だと思いますが、これならかなり有効に使えるのでは、と感じました」
一樹は簡単に感想を述べた。タイプＳＸの見通しについては、敢えて言わないでおく。明日、ダグラス・トランプに見て貰う前に、妙な先入観を植え付ける事になりかねないからだ。
「ところで、ダク。先日、プロジェクト・ゼロで働く女性スタッフから、Ｂマニュアルは、一体、どのようにして作ったのか、と質問されたんだ。いかにマニュアル大国のアメリカでも、内容が内容だけに、難しい仕事だったんじゃないか、と思うんだが」
大熊の質問に、ダグは微妙な笑い方をした。
「テツ。あの表紙の文字を見たかね？マダム・デュランのマニュアル、となっていただろう？実は、あれは、私がまとめたものではなく、私の父がマダム・デュランから買い取ったものなのだ」
「マダム・デュラン……それはどう言った人物なのかね？」
「マダム・デュランは、１９６０年代から７０年代にかけて、フランスで一世を風靡したコールガール組織の女主人だ。
彼女は、元々、売春を営んでいた訳ではなく、他人のコールガール組織を受け継いで営業を始めたのだが、彼女の店は、すぐにヨーロッパ中に知られる最高の店と謳われるようになった。
その成功の秘密が、そのマニュアルさ。
彼女は、雇い入れた少女を、マニュアルに基づいて徹底的に磨き上げたんだ。場合によっては整形も厭わなかったし、訓練も徹底したものだったようだ。
その当時、『マダム・デュランの館』で働いている、と言う事は、トップレディの証のようなものだったと言う。娼婦として蔑まされるどころか、”品質保証ラベル”になっていた、と言うのだ。
なにしろ、パリの社交界では”パーフェクトな美女”を見つけたら、『デュランの館』の娘と思って間違いない、と囁かれていたと言うのだからな。
また、彼女は、コールガールとして働く娘たちを相当厳しく躾けていたようだ。
だから、娘たちは売春と言う職業につきながら、結婚相手には不自由しなかったし、求婚する男性も後を絶たなかったと言う。
実際、娘たちの相手は一流の男性ばかりだったし、ある意味、火遊びにうつつを抜かすブルジョアの娘たちより身持ちが固いとさえ言えたそうだ。
『デュランの館』の娘の何人もが、弁護士や医者と言う裕福な男性に妻として迎え入れられ、伯爵夫人や侯爵夫人になった例も少なくない。そのうちひとりは、ある国の王妃になっている」
「……信じがたい話だな」
「顧客名簿を見たら、腰を抜かすさ」ダグは、悪戯っぽく笑った。「パリ社交界の大物がずらり。アラブの石油王、ギリシアの海運王、爵位を持ってるだけの貴族連中なら掃いて捨てるほどだ。極め付きの大物は、合衆国大統領」
「うーむ」
大熊は唸った。
「しかし、彼女は派手にやり過ぎた。フランスの国税局に目をつけられたんだ。
８０年代の始めには彼女は店を畳み、アメリカで亡命生活を送っていた。その後、彼女は売春業から縁を切り、さまざまな仕事に就いていたのだけど、経済的に貧窮していた時期もあったそうだ。あのマニュアルはそうした際に売りに出され、それを私の父が買い取ったのだ。
父は、あれを一種の好事本として入手し、商売に活用しようとは思わなかったようだ。
私が、その存在を知ったのは、今から１５〜６年ほど前の事になる。私はフランス語が得意じゃないが、大まかな内容は判るので興味を引かれ、知り合いのフランス人に英訳して貰ったんだ。
それを読んで、私は、それまで片手間にやっていたコールガール業を本気にやってみようと思ったのだ。マニュアルの内容があまりにも素晴らしく、この通りにやれば成功間違いなし、と思えたのでね。
以来、私の組織は急速に大きくなり、ニューヨークＮｏ．１になったのは知っての通りだ。マニュアルの方も、アメリカ式に整理したり、写真や図を加えて元の倍以上に膨らんでしまったが、元のマダム・デュランのものと基本的な内容は変わっていない。
そこに敬意を表して、未だに表紙にはマダム・デュランの名前を入れていると言う訳だ」
「ふうん」大熊は、大きく息をついた。「だから、表紙にマダム・デュランとあったのか。でも、ダグ、質問には半分しか答えてないぞ。マダム・デュランの手になるマニュアルと言うのは判ったが、彼女は、どうしてこんなものを作れたのだろう？」
「うむ……実はあのマニュアル、元となった本があるらしい。それは、彼女の経歴に関係がある。マダム・デュランは実は修道女だったのだ」
「ほう、それは？」
「意外な話だろう？敬虔な修道女が、何故、売春宿の女主人になったのか……それがこの話の鍵だ。
マダム・デュランが修道女だった時、戦災により修道院が破壊され、その際に持ち出された古い書物の中に、問題の本があったようなのだ」
「それはどんな本なのだ？」
「私も気になって調べてはいるのだが、よく判らない。
ただ、相当に古い時代から、脈々と伝えられて来た内容であるらしい。記述によればだが、バビロニアの昔から伝わるものだそうだ。
マダム・デュランのいた修道院では、修道女教育に、その本をベースとした資料を使っていたようだ。元々、探求心旺盛な彼女は、混乱の中でその原典に辿り着き、それを我が物にしたようだ」
「しかし、修道院に売春の手引き本があるとはな」
「テツ、売春とは人類最古の職業だと言われているし、古くは宗教とも密接に関連していたのだ。
ギルガメッシュのバビロニア叙事詩によると、イシュタル……つまり、豊穣の女神は、同時に売春の女神であったそうだ。イシュタルの祭りでは、娼婦――いや、この場合は聖なる巫女と言うべきか、彼女たちが重要な役割を果たした。性行為は、豊穣の神に捧げる祈りでもあった訳だ。
また、マルドゥク神は、神殿において、ふたつの奉仕を女性に求めていた。ひとつは尼僧、もうひとつは娼婦だ。
つまり、バビロニアでは、売春は神殿で行う聖なる職業であったのだ。
そうなると、現在より娯楽の少なかった時代の事だから、かなり繁盛し、その技術も磨き上げられていたと見ていいだろう。私は、この時代のバビロニアの聖娼婦のセックス・テクニックは既に完成の領域に達していたのではないか、と考えている。
しかし、キリスト教文化では、聖なる愛と、淫らな性愛は区別され、後者は封じ込まれてしまった。
その中で、問題の本は、性愛に関する部分を削られ、むしろ、それを隠すための反面教師的なテキストとして、生き延びて来た。
古来、男の理想の女とは、昼は聖女の如く、夜は娼婦の如くと言うね。これは、正にマルドゥク神殿に仕える女性そのものだ。このマニュアルの、娼婦の部分を切り捨てれば、これは聖女としての行動規範そのものになる。これを修道女教育に使っていたんだ。
だが、教会によって闇に葬られた筈の、その完全版が奇跡的にマダム・デュランの手に入った……そうは考えられないだろうか？いや、内容からして、それ以外には考えようがないのだ」
話を聞いて、大熊は深い息をついた。
「それにしても、大変な故事来歴があるものなのだな」
「そうだ。未だ調査中だが、もっと複雑な歴史があるものかもしれない、と考えている。
いずれにしても、バビロニアの昔から伝えられて来たマニュアルが、この度、日本のメカトロニクス技術によって工業製品となる事は確かだ。
マダム・デュランの為に乾杯しよう」
ダグはグラスを掲げた。
「バビロンの聖娼婦の末裔であり、マダム・デュランの娘分である、われらがエクスロイド・タイプＳＸに乾杯」
一樹は、何となく空恐ろしいような思いでワインを口にした。いつになく酒が口に苦い。
先程、マニュアルにざっと目を通した時にも感じたのだが、そこにあったのは、愛だとか恋だとか言う甘ったるい感情の話は欠片もなく、単に、己の肉体を使って男性に快楽を与えようとする技術論だけだった。
性交中の女性に人格はない、と言われる事がある。男の為に、無個性なショーを演じさせられているだけだ、と。
そんな事も、こうしたマニュアルを見てしまうと真理なのかもしれない、と思う。
そして、それが、男が望んで作り上げたので物ではなく、女が、男を意のままに操る為に作ったものと考えた時、空恐ろしい気になるのだった。
だが、エクスロイドの一技術者となり、その応用を考えた時、これは使えるぞ、と一樹の中で囁く声がする。
Ｂマニュアルを作るに至った、女たちの積み上げた行為に、ロボットじみた要素が多かったせいだろうか。
そして、男たちが、そうして自己を押し殺し、マニュアル通りの対応をする娼婦たちのロボットじみたセックスサービスにぞっこんだったと言うのなら、タイプＳＸにも成功の可能性がなくはない。いや、バビロン以来のノウハウを完璧にマスターしたコーティザンとして現代に蘇るかもしれないのだ。
一樹は、プロジェクト・ゼロにかかわってから、ただの１度としてタイプＳＸが成功すると思った事はなかったが、今、初めて成功の微かな兆し、その手応えを感じる事が出来たのだ。
「カズキ、何を考えているの？」と、横から一樹の表情を伺い見てティナが言った。「いい顔ね。ぐっと来ちゃった」
「Ｂマニュアルの事を考えていたんだ」
我に返って、一樹は答えた。
「なんだ、あれに関してなら、あたしはエキスパートよ」得たりとばかりにティナは乗って来た。得意げな笑顔を見せる。「あたし、叔父様から仕事を任されるに辺り、基本カリキュラムから全部受講して修了したのよ」
「本当に？」
「勿論。そうでなきゃ、働かせる女の子たちに顔向け出来ないでしょう？あんたたちと同じ事、いや、それ以上の事はやってる、って事を態度で示さないと、こうした仕事は出来ないわ」
「だって、あれ、トレーナーと実際にセックスするんじゃないの？」
「当たり前でしょ。自転車だって、講義を受けただけじゃ乗れないわよ」
「そりゃそうだけど」
「トレーナーは、ベテランのテクニシャンばかりだし、これも役得なのかな、我が儘言って好みのハンサムに相手させたから、楽しかったわ」
「……」
一樹は、あっけらかんとしたティナの物言いに圧倒され、黙ってオードブルをつまみ、ワインを飲んだ。
この活発で美しいティナにとっては、セックスもスポーツの一種なのかもしれないが、セックスとはあけっぴろげにするものではない、と言う感覚から抜けきれない一樹にとっては、どうにもついて行けなかった。
そして、一樹は、その感覚すら破壊されかねない体験をする事になる。
「カズキ、Ｂマニュアルに関心はあるでしょ？」
「勿論さ、当分、あれを格闘しなくてはならない筈だから」
「じゃ、これからあたしの部屋にいらっしゃい。実技指導込みでレクチャーしてあげるわ」
最近、いろいろな経験を積んで来た一樹だが、これには手にしていたグラスを取り落とさんばかりにびっくりした。
「それはありがたいけど、ぼくはこのところインポテンツ気味なんだ。それに応えられるかどうか自信がない」
「それなら、尚更ね。それ込みで治したげるわ。特別サービスでね」ティナは上半身を乗り出した。照明に金髪がきらめく。「Ｂマニュアルを完璧に修了した女性とメイクラブすると、インポテンツの男性のうち、５７．４％が治るのよ」
「……ぼくは４２．６％に入りそうな気がする」
「そんな気弱な事を言ってるから駄目なのよ」
ティナは、一樹の肩を掴んで揺さぶった。
「おっ、ティナがカズキを口説き始めたぞ」
ダグが、ティナのただならぬ様子に気付いて声をかけた。
一樹は、正直、救われたと思ったのだが……
「叔父様、カズキ、インポなんですって」
ティナの身も蓋のない言い方に、一樹は赤面した。
「だから、Ｂマニュアルのレクチャーも兼ねて、治してあげる、と言っていたのよ」
「プロジェクト・ゼロのプロジェクト・リーダーが……困ったものだな」
大熊までが追い打ちをかける。
「そう言う事なら、やってあげなさい」と、ダグは言い、それから肩をすくめる。「やれやれ、特別サービスだな」
「決まりね」
一樹は、穴があったら入りたいような気分だったが、ここまで来ると開き直るしかない、と決めた。
「判った、行くよ」
一樹は、グラスに残ったワインを飲み干した。
まるで、身体の中からすべての精気が抜けてしまったような気分で、一樹はティナの身体を抱いていた。暫くは、腰が立たないのではないかと言う気さえするほどだった。これまで、セックスとは男性が主導するものだと認識して来た一樹にとって、ティナとの経験は正に目から鱗の落ちるようなものだった。
それは、男性が一方的にリードして女性にクライマックスを幾度も味わわせ、男は一瞬のクライマックスを感じて終わる、と言う普通の性交渉とはおよそ異質だった。
この体験は素晴らしいものだったが、これは果たしてプロジェクト・ゼロで実現出来るかについて、一樹はまたしても頭を抱えたい気分に陥ってしまった。楽しければ楽しい程、快楽が大きければ大きい程、自分の仕事に照らし合わせて心理的負担を増やしてしまう、つくづく損な性格ではある。
一樹は、まだ荒い息をつきながら、まるで夢のような今夜の成り行きを思い返した……
ティナに誘われ、ダグと大熊社長からもけしかけられて、一樹は、ティナの“レクチャー”を有り難く受ける事にした。
もっとも、こうなってしまっては、サラリーマンとしての一樹に、受ける以外の選択肢はなかった訳だが。
勿論、バビロニア文明以来の伝承の成果を、我が身で体験しておかなくては、と言う一種の責任感もあった。責任感過剰だと言って、また静佳には叱られそうだが、幾度忠告を受けても、中年になった男の性格をそうは変えられるものではない。
同時に、静佳に申し訳ない気持ちもあったが、「これは仕事」と、割り切る事にする。
準備があるから３０分後に、と言うティナの言葉に従い、一樹は、ティナに遅れる事、きっかり３０分で席を立った。
念の為、携帯で連絡を入れる。
「ハイ」
ティナはすぐに出た。
「一樹ですが、これから行って構わないですか」
「どうぞ。早く来て」
電話の向こうの声は、何故か弾んでいた。一樹は、不安と期待、それに憂鬱の入り交じった複雑な気持ちのままで、エレベーターに乗って最上階に上がり、ティナの部屋のドアをノックした。
ドアは素早く開いて、一樹を迎え入れた。
「ようこそ」
豪華なインテリアの室内と、見事な夜景を背景に、ティナは淡い紫色のガウンをまとって立っていた。
ガウンと言ってもごく薄い素材のもので、下に着ているナイトウェアを通して、見事な曲線が微かに透けて見える。
「カズキ」
ティナは、そっと寄り添って来ると、一樹の首に両手を廻した。香水の香りと共に、ティナの女そのものが強く匂った。
一樹は、ティナを抱いて唇を合わせた。
柔らかい唇と熱い吐息、それだけで一樹の身体は電流と通されたようにしびれた。
「シャワーを浴びていらっしゃい」
「うん」
一樹は、頷いてティナから身体を離した。これまでに一度も入った事がないような豪華な浴室でシャワーを浴び、備え付けの薄いタオル地のバスロープを着て浴室を出ると、ティナはソファにゆったりと座って何か飲んでいた。
一樹が来る前にルームサービスで届けさせたらしい。
「マティーニでいい？」
選択の余地もないので、一樹は頷いてグラスを手にした。
食事の際には、トランプ氏と社長、専務と言った大物の前なので、遠慮していたが、さすがにここで遠慮する事もないだろう。
シャワーを浴び、更に、これからの期待にカラカラになった喉にアルコールが染みわたる。
ティナはすり寄って来て、身体をぴったりつけると、熱く囁いた。
「楽しい夜のために」
どこまで本心なのか、どこからＢマニュアルに基づく対応なのか判らないし、そもそもこう言う場面で何と切り返していいかも判らない。
一樹は、調子を合わせる事が出来ずに、ただ、マティーニを飲み干した――こんな有様だから、”ナード”などと言われるのだが、勿論、一樹はそんな事は知らない。
そんな一樹の様子を見て、ティナは話題を振った。
「叔父様は、カズキのエクスロイドに凄い期待しているのよ。ご存じ？」
「うん」仕事の話になれば、一樹も問題なく対応出来る。「コールガール業が上手く行かなくなって来たからだ、って」
「それはどうかしら。正直な話、いろいろな問題はあるにしても、大きな投資を掛けて、仕事そのものを変えなきゃならない、と言う理由にはならないわね。だって、相変わらずニューヨークＮｏ．１ではあるのよ。
でもね、叔父様のような人でも、歳を取って来ると、女の子がお金を取って男と寝るのを斡旋するのが、内心、厭になって来ているようなのよ。
あたしに経営の実権を譲ったのもそうなのでしょうけど、要は、そう言う事だと思ってる。
きっと、Ｂマニュアルをまとめたマダム・デュランもそう言う心境だったんじゃないかしら。
でも、だからと言って、廃業して済む訳じゃないのよ。
ニーズはあるんだし、誰かがそれをやるに決まっている。その誰かが叔父様よりまともである保証もないのだから、女の子を泣かさない為には、叔父様はこの稼業を続けざるを得ない訳。
そこで、女の子をロボットに切り替え、道徳心もお金儲けも一緒に満足させようとしているのだと思うけど」
「でも、売春そのものは、別に悪いことじゃないと思うのだけど」
一樹は、恵の受け売りをやってみた。
「悪い訳がないわ」ティナは、当然と言うように頷いた。「女が、自分の身体を使ってお金を稼ぐと言う点では、モデルと同じじゃないの。コールガールなんて絶対やりたくない、と言う人も大勢いるけど、コールガールの中にも、モデルなんか恥ずかしくて出来ない、と言う人もいるわ。
それは当人の好みの問題で、良いとか悪いとか言うべき事じゃないと思うわ。
あたしの仕事も、それぞれの娘に向いたお客さんを紹介して、紹介料と保護料として３０％を貰う。モデルクラブとやってる事は変わらないわ。
でも、二十世紀に生まれた人たちは、やはり旧世紀のやり方が身体に染みついているから、やはり不道徳な事をしていると言う潜在意識が働いているんじゃないからしら。
それに、男の人は、意外と保守的なのね。女は、自分がする、しないは別として、お金を貰って男の人と寝るのもビジネスと思って割り切っているのに」
「……こうしているのも？」
一樹は、辛うじて切り返した。
「そうね、正にビジネス。それがどんなものか、これから体験させてあげるから」
ティナは、凄みのある笑顔で笑った。
「よろしく頼みます」
一樹は思わず腰がひけた。本音を言えば、いくら美しくとも、こう言う気性の激しい女性は苦手なのだ。
「でも、その前にひとつ、聞きたい事があるの」ティナは、好奇心いっぱいの表情で尋ねる。「カズキは、エクスロイドに本当にコールガールが務まると思う？明日、見せてくれる試作機と言うのはどの程度の事が出来るの？」
「女の人に何と説明すればよいか判らないけど、最初試した時は、本当の女性そのままな事に、ちょっとびっくりするくらいだ。でも、３回目くらいになると単調で白けてしまうんじゃないかな、と思うんだ。ぼくはこんな状態だからやってないけどね。
それに、まだ唇が使えない」
「唇が……」
一樹は、唇と舌を作る技術的難易度を簡単に説明した。
「じゃ、フェラチオなんて到底無理ね」
「いや、むしろフェラチオが出来ればよいのなら何とかなるよ。むしろ、キスが絶望的なんだ」
「キスが出来ない・・・それは問題だわ」ティナは呟いた。「それ以外は、Ｂマニュアルを使えばモノになりそうなの？」
「わからない」一樹は正直に言った。「まだＢマニュアル自体、ざっとしか見ていないし、エクスロイドを制御するデータベースが構築出来るかどうかも、ぼくは専門家じゃないからわからない。
ところで、ティナ、君はエクスロイドのような機械が、人間の女性に代わって男の相手をする事に、心理的抵抗感は感じないのかい？」
「そうねぇ……」
ティナは、美しい眉をひそめて考え込んだ。
「もし、君が結婚していて、夫がエクスロイドで遊んで来たと知ったら、どう思う？相手が人間でないのだから構わないと思うか、人間でないからこそ気持ち悪いか。どちらでも同じように不愉快であるか」
一樹が質問を追加すると、ティナはすぐ答えた。
「本当に夫を愛していれば、相手が人間でもロボットでも不愉快だと思うわ。私と言うものがありながら、と言う感じね」
「なるほど」一樹は頷いた。「じゃ、そうじゃなかったら？例えば、ぼくは幾度もエクスロイドを抱いているけれど」
「カズキの場合は、仕事だから仕方ないわ。そうでないとしたら……そうね、セックスのひとつの形としてはありだと思うわ。マスターベーションの一種かも知れないけどね。勿論、それしか出来ないのは問題でしょうけど、そうじゃなかったら構わないんじゃないかしら」
「そんなものかな」
「ねぇ、こんな話ばっかりしていても、つまらないわ。カズキ、抱いて」
ティナが、鼻を鳴らしてしなだれかかって来た。
「ごめん、ぼくは、仕事中毒（ワーカーホリック）気味なんだ」
一樹は、ティナの豊かな身体を抱き寄せながら言った。
「ばかね。だから、インポテンツなんかになるのよ」
ティナは、静佳と似たような事を言いながら、リモコンを操作して部屋の照明を暗くした。
二人は唇を合わせると、ソファーの上に重なり合うようにして横になった。厚味のある身体の抱き心地は、華奢で繊細な日本女性――最近、静佳を相手にしているのだから尚更だ――より大味な感じだったが、キスが上手なのには正直なところ圧倒される思いだった。まさか、舌が男の性感帯であるとは知らなかった一樹は、Ｂマニュアルの効果のあらたかさに、最初っから圧倒されていた。
同時に、これをエクスロイドで実現するのは不可能なのでは、と言う絶望感が強く沸き上がる。
だが、ティナと抱き合っている今は、絶望感は絶望感として頭の一部分に独立して存在し、それとは別に強烈な欲望が身体の中に渦巻いていた。
ティナは、全く受け身で身体を任せているようだったが、実際は一樹の愛撫に対して極めて積極的に反応していた。上品に喘いだかと思うと、小さな叫び声を上げたり、刺激に耐えられぬように身をよじったりして、男から与えられている快楽の大きさを、全身の動きをもって巧妙に表現するのである。
一樹にとって、ティナの示す反応ひとつひとつが男としての自尊心を最高にくすぐってくれる快楽だった。それは、Ｂマニュアルに従った演技に過ぎないのかもしれなかったが、そんな事は既にどうでもよくなってしまうほど、ほんの数分の抱擁と愛撫に一樹は酔いしれてしまった。
早くベッドに行ってより激しい行為を行いたいとする欲望と、今のまま、じれったいような快楽を味わっていたいと言う相反するふたつの気持ちの相克にさえ、自虐的な喜びを感じ、一樹は、ティナのびろうどのような感触の肌を愛撫し続けた。
そして、ベッドへ行きたい欲望が高まって、もう耐えられなくなった時、ティナが囁いた。
「カズキ、ベッドで連れていって。もう我慢できない」
一樹は、ずっしりと重いティナの身体を抱き上げ、ダブルベッドへと運んだ。
ティナは、薄いガウンを脱いで、ナウトウエアも脱ぎ落とした。一樹も、バスローブを脱ぎ捨てると、欲望を剥き出しにしてティナの前に立った。
次の瞬間、一樹は、既に猛々しい勢いを持ったペニスが、熱くぬめるものに包まれるのを感じ、こんな事の出来るエクスロイドが人間業で作れる訳がない、と確信した。しかし、それでも、もうインポテンツが再発する気配はなかった。
幸いな事に、一樹は、５７．４％の方に入っていたのである。