Ａｃｔ．１１ インポテンツ
「今日は何だか疲れたぁ」
静佳は、溜息をひとつついて言った。
「社長が来たからかい。ああ、そうか、社長とは初めてだっけ」
「うん、思っていたよりも気さくな人だけど、やっぱり緊張するなぁ。一樹さんは、慣れているから平気でしょうけど」
「そうでもない。こんな特殊な仕事をやってなきゃ、滅多に口をきく機会もない人だから、やっぱり緊張するさ」
実際、それを理由に、今日は一樹は仕事を早めに上がる事にしたのだ。そして、一樹は静佳と待ち合わせ、川崎駅前のショッピングモール内のレストランで食事を共にしていた。
「でも、高見沢さんの言っていた言語対動作レスポンス機能と、コールガール訓練マニュアルを組み合わせれば、本当にＳＸはコールガールの代わりが務まるのかなぁ」
「どうだろう……これは、横田とか、君の方が詳しいように思うけど。
とにかく、ハードウェア構築も一段落したし、制御の方も状況を変えられそうな材料が出て来たんだ。ちょっとは先が明るくなったような気がする」
そう言って、一樹は笑顔を見せた。
「よかった」静佳が、我が事のように嬉しそうな笑顔を見せた。「ここ暫く、一樹さん、深刻な顔していたから」
「そうかな」
「あまり抱え込まない方がいいと思うけど」と言ってから、静佳は思い出したように尋ねた。「そう言えば、あの話、どうなったの？」
「あの話って？」
「初号機も出来ちゃったじゃない、古池くんの補助を入れると言う話」
「ああ、そうだな」
プロジェクト・ゼロが正式プロジェクトになった事もあり、初号機の評価に、専門の実験部隊が担当する事になった。
勿論、試験計画は、古池が中心になって作り上げているのだが、それで問題になったのが、初号機と実験室の衛生管理だった。実験に加わる人数が増え、実験室の稼働状況が上がれば上がる程、その衛生管理の重要度は高まる。例えば、感染症の保菌者から、初号機を媒体にしての感染も考えられたし、不潔な環境であれば、それだけで何らかの病気感染のリスクがある。
勿論、医学知識のある静佳がチェックをしているし、古池も管理はしているものの、専任ではないだけに手一杯の状態だった。
そこで、静佳は、古池の補助として衛生管理の専任者を入れる事を提案していたのだ。
「君から紹介された土屋さんだけど、もうちょっとかかりそうだ。開発部門なら高見沢さんの権限で問答無用で引っ張れるけど、診療所は総務の管轄なんで、ちょっと手間取っているんだ。三崎さんにも動いて貰っているんだけどね」
「課長さんは大変よねぇ……ねぇ、今日はわたしのウチに来ない？」
ここ暫く、静佳と夜を共にする事がなかったせいか、静佳は積極的に誘う姿勢を見せた。
「う……ん」
一樹は、即答せず、口ごもった。
「他にデートの約束でも？」
静佳は、煮え切らない一樹の様子に、からかうような口調で言った。
「そうじゃない。泊まって行く事自体は差し支えないんだけれど……何と言うか……」
「具合でも悪いの？」
「え……と、困ったな」一樹は思い切って言ってしまう事にした。「立たないんだ、実は」
「えーっ、いつからぁ？」
「初号機が出来た後。完成後、１回は出来たんだけどね、その後はもうダメだ」
「そっか」静佳はうんうん、と２度ばかり頷いた。「わたし、一応、セックスセラピストの教育も受けてるから、相談には乗れると思う。一樹さんの場合、疲れと、真面目な人にありがちな神経性のやつだろうから、すぐによくなると思うけど」
「そんなものかな」
「器質的障害……つまり、神経のどこかが傷ついてるとか、何かの中毒症のような場合ならともかく、そうじゃないんでしょう？心配することないと思う」
「心配はしてないけど、君の所に行っても、今のような状態じゃ……」
「いづみ相手にダメだっただけでしょう？わたしじゃダメかな」
静佳は、気を持たせるように言った。
「じゃ、行くよ」
「気にしちゃダメ。出来なければ出来ないで、そのうちよくなると思っていればいいんだから。
一樹さんは、もっと気楽に仕事した方がいいと思う。今までのような仕事続けていると、インポどころか、どこかおかしくなっちゃうよ、ほんとに」
「仕事なんか、いつ辞めてもいいと思っているんだけどな」
「それはイキがってるだけじゃない。結果としては人生賭けてるのと一緒でしょ。
確かに、わたしは責任者じゃないから、客観的に見られるのかもしれないけど、一樹さんは責任感が強過ぎると思う。あんな無理難題押しつけられて、うまくできなかったって、それは一樹さんの責任じゃないでしょう？むしろ、１年もかからずに、あれだけのものが出来ただけでも、御の字だと思って貰わなくちゃ。
だって、ピーゼロの目的は、『女』を作る事なんでしょう？
しかも、男の人が、一晩過ごすために大金払うような、とびっきりの女の人を。それって、まるで、神様の代行をしろと言うようなものじゃない。
美人で、スタイルもよくって、話も楽しくて、キスもセックスも上手で、愛想がよくて愛嬌もあって……そんな理想的な女の人、神様だってそうそう作れやしない。
そんな事が、簡単に出来る訳がないでしょう？」
静佳は、一樹が胸の内に抱える思いを代弁するように言った。一樹は、さすがにどきりとする。
「社長や、高見沢さんだって、その程度の事に気付いていない訳はないのだから、一樹さんひとりがムキになったってしようがないじゃない。
他の人たちは、結構楽しんでいるでしょ。
古池くんなんて、今の初号機を払い下げて貰えれば、彼女なんていらない、って言ってるでしょう？あれ、冗談で言ってるようには思えないけど」
「ああ、ああいう旺盛な年頃、彼女もいなければ、いづみのようなエクスロイドが家にあったら、当分の間は新婚気分だろうなぁ」
「そうでしょ。みんな結構、楽しんでいるのよ。責任感に燃えているのは課長さんだけ」
「だって、責任者なんだから、仕方ないだろ」
「抱え込み過ぎよ。会社の経営から、わたしたちの事まで……しかも、最悪の時には会社辞めると、自分の人生まで賭けてる。
ピーゼロなんて、社運が懸かっているような重大な仕事じゃないんでしょ。そこまで抱え込んで、挙げ句にインポテンツや心身症なんて、笑い話にもならないわよ」
「そんなに悲壮な覚悟でやっていたつもりもないんだけどなぁ」
「自覚していればまだマシだけど、自覚せずに悲壮なのがいちばんタチ悪いのよ」
「やれやれ。散々だな」
一樹は苦笑した。
「だって、本当に心配してるから言ってるの。わたし、一応は初歩的な精神科のカウンセリング教育も受けているから、何となく判る。
あんな仕事のやり方で、何ともなければおかしいと思っていたけれど、やはり、一樹さんも人間だったのね。ちゃんとインポテンツになったんだもの」
静佳は、冗談めかして笑いながら言ったが、目つきは真剣だった。
「おいおい」
「いい？これ以上、無理しちゃだめよ」
「はい、先生」
一樹は、半ばやけ気味になって言った。
確かに、エクスロイド・タイプＳＸのような、ある種、“大人のおもちゃ”を作っていると言うのに、その当人がインポテンツに陥り、それを使ってみる事さえ出来ないと言うのは、第三者からすれば、お笑い種にしかならない状況だ。
「気楽に行きましょ」
静佳は、鼻にかかったような柔らかい声で言うと、得意のくしゃっとした笑顔で笑った。
「出来なければ、それはそれでいいの。わたしは、ただ、一緒にいてくれればいいから、ね」
静佳は、年明けに鶴見のマンションへ引っ越していた。
さすがに、品川駅前、３ＬＤＫのマンションの家賃は、若い女性の給料で払えるものではない。昨年までは、医者である妹と同居し、尚かつ、妹が実家から仕送りを受けていたから住めていたのだ。
静佳は、青森でちょっとした規模の病院の院長を勤める母を持つ。黒木家は、代々医師の家系であった。２人姉妹の長女であった静佳も、当然、医師となり、将来は病院を継ぐ事を期待されていた。
だが、元々母親と反りの合わなかった静佳は、医大卒業後、母親の意志に反して、医師になる事を蹴り、工科大へ進んでしまった。それが原因で、母親と衝突、勘当されたも同然の状態になっていた。
昨年の、妹の結婚式も、母親に顔を合わせるのが嫌で出席していない。
もっとも、母親と不仲な分、静佳は父親べったりで、その父親のとりなしで、静佳は、妹のマンションに同居。それを隠れ蓑に父からの援助を受けて大学を卒業したのだ。
色々と確執のありそうな家庭環境なのだけど、
「好きな事するのは大変」
と、明るく言い切って、屈託無く笑う辺りが静佳らしいとは言える。
静佳にはファーザーコンプレックスの傾向があった。
そんな静佳が、母親と仲違いして実家に戻れず、父親と会う事が出来ない。それ故、会社内に擬似家族的な小集団を作り上げ、家長的に振舞う一樹に、静佳は、理想の父親像を投影していたのだ。
新居となったのは、鶴見駅に近い２ＬＤＫのマンションだった。
一人暮らしには広い部屋だが、やはり、広い住まいに慣れてしまうと、そうは狭い所では暮らせず、また、何かと言うと友人や後輩を集めて自宅で過ごす静佳にしてみれば、この広さは必然だったのだろう。
また、静佳は、住所が「横浜」である事に拘った。一樹にしてみれば、鶴見も川崎も大差ないと思うのだが、静佳は、川崎と横浜では大違いなのだと言う。
地方出身者故の憧れか、女のささやかな見栄なのか、一樹にはちょっと判らない拘りだった。
そして、このマンションの家賃、一樹が一部、補助を出していた。
どちらが望んだと言う事もなく、いわば成り行きで、一樹は静佳に金を渡し、時折、部屋を訪れる、そう言う関係になっていた。それは、ある意味、愛人関係と言えた。
だが、不倫ではないにせよ、結婚を望まない男と、若い女性の関係として、落ち着くべき所に落ち着いた、と言えるのかもしれない。
そう言う関係となって数ヶ月、一樹は、既にそうした関係を受け入れつつある自分を感じていた。
その静佳のマンションで、一樹は、静佳とベッドを共にしていた。
静佳は、一樹を奮起させようと小一時間頑張ったのだが、結局駄目で、今は、一樹の腕の中で安らかな寝息を立てている。
化粧を落とした静佳の童女のような寝顔を見ながら、一樹は、自分にもやっと遅い女運のつきが巡って来たのかもしれないな、とそんな事を思った。
土屋美保が特機２課へ配属になったのは３月に入ってからだった。
美保は、静佳の医大の後輩で２６歳。今まで、ホクトの診療所に看護師として勤めていた。
ただ、美保は、静佳のように開発の仕事をやりたいと希望しており、それを知る静佳の推薦もあって、診療所から引き抜きをかけたのだ。
異動初日、
「土屋です。よろしくお願いします」
と、挨拶をした美保の姿に、美保と初対面の２課の男たちの中から感嘆の溜息が思わず漏れた。それ程の美人だったのだ。
顔を上げ、額にかかったストレートの長い髪を優雅にかき上げる仕草がなんとも女らしく色っぽい。
卵形の顔に、黒目がちのぱっちりした目、ぽってりと厚みのある唇・・・目も口も小さな静佳が博多人形のようだとすれば、美保はあでやかなフランス人形だ。
小柄な肢体も、女らしく丸みを帯びてセクシーだ。
「土屋さんには、とりあえず実験室と初号機の衛生管理を担当して貰う。仕事は、古池君の指示に従ってください」
美保には、当面、実験関係の衛生管理をして貰う事になるが、一樹は、その仕事をしながら設計の仕事も覚えて貰い、自動洗浄機の設計などにも入って貰うつもりだった。
また、これからは、商品化した際の運用方法についても考えていかなければならないだろう。
静佳からは「気楽に行こう」と言われはしたものの、一樹は、未だ、そうした気分にはなれないでいた。