Ａｃｔ．８ 仕事納め
１２月、最後の出勤日。
仕事納めの日は、午後から大掃除となった。掃除の後、あらかじめ用意しておいたビールとつまみでささやかな酒宴を開いた。
忙しい日々はまだまだ続いていただけに、久々に仕事から開放される気楽さで、冬休みの予定を中心に、話が盛り上がる。
「中崎君は、これからスキーか。いいなぁ、今夜出発？」
横田が羨ましそうな声で言った。
「横田さんは、帰省でしたっけ」
「ああ、カミさんの実家にな。そこで正月迎えたら、新年早々、ウチにも顔出さないといけないし」
「親孝行ですね」
「孫の顔を見たがるんだよなぁ……」やれやれ、と言う顔をする横田だが、子供の話をする時には柔らかな表情になっている。「大賀さんは？」
「おれは、元旦だけ帰って家族で初詣。毎年恒例だからな。あとは寝正月だ」
「黒木さんはどうするんですか？」
「なんでか、お正月になると、医大の友達と後輩がわたしの所に押し掛けてくる習慣があって、何処にも行けないの」
「ご馳走するんですか？」
と、長谷川が訊いた。
「あー、わたし料理ダメだから、場所の提供だけ。食料はあっちの持ち込みなの」
「へぇー、じゃ、おせち料理の支度もいらないんだ」
「そ。それだけは助かるんだけど。正月３日は、あちこちのおせち料理のフルコース。食べて、飲んで、寝るだけだから、その後のリカバリが大変」
静佳は、あっけらかんと言い放って楽しそうに笑った。
一樹は、いかにも静佳らしいと思って、おかしくなった。
ほんの半年前まで、プロジェクト・ゼロに女性を参加させる事を考えていなかったのが嘘のように、静佳は仲間内にしっくりと溶け込んでいる。セックスの話題など、静佳が来てからの方が話し易くなったほどだった。これは、医師免許を持つと言う静佳のスキルもだが、それ以上に、本人の無邪気で明るく、あっさりした性格のおかげだと、一樹は思っていた。
ひとしきり盛り上がった後で、「来年も頑張りましょう」とお開きにし、一樹は、後片付けを買って出た静佳と共に、執務室に施錠して最後に退社した。
表に出ると、陽はとうに落ち、冷え込みが厳しくなっていた。
「うう、寒っ」
コートの襟を立て、最寄り駅へと歩き出す。
「ねぇ、大賀さん」駅までの道で、静佳が切り出した。「今日は、もうちょっとつき合ってくれませんか」
「うん、いいよ」一樹は、了解した。「明日から休みだし、予定もないし」
最寄り駅から電車で川崎に出る。
「どうしようかな・・・予約もしてないし、今日辺り、仕事納めで何処も混んでいるんじゃないかな」川崎駅で、静佳はこう言い出した。「わたしのマンションに来ませんか。ウチ、さっき話したように、ちょっとした人数集まれるくらい広いんですよ。近所に美味しいお寿司屋さんがあるから、そこから出前を頼んで・・・」
「喜んで、お邪魔するよ」
誘われてるのかな……と、一樹は思ったが、断る理由はなかった。お互い独身だし、数ヶ月共に仕事をして、気心も知れ始めた。なにより、性格のいい静佳だけに、おかしな事にはならないだろう、と思う。
「よかった」静佳の表情がぱっと輝く。「じゃ、行きましょう」
静佳は、一樹の腕を掴み、引っ張るようにして静佳の家に向かう電車の乗り換え口へ案内すると、これまで見せた事のない、甘えるような目つきで、ちらりと一樹を見上げた。
「そろそろ来るとは思うのですけど……ゆっくりしてください」
静佳のマンションは、品川にある３ＬＤＫ。確かに広く、来客にも不都合なさそうだ。一人暮らしの女性には不釣り合いではないか、と訊いてみると、先日結婚して独立した妹と、今までルームシェアして住んでいた、と言う事だった。
妙にガランとした雰囲気があるのは、そのせいか、と一樹は納得した。
部屋に入ると、静佳は、コートを脱いで、ジーパンにワンピースドレスと言う服装になった。一樹のコートと上着は、ハンガーにかけて奥の部屋に片付けてしまう。
リビングのソファーに腰を下ろし、所在なげに周りを見回していると、インターフォンが鳴り、来客を知らせた。
マンションへ向かう途中、携帯電話で注文した出前が到着したのだ。
「来た来た」
静佳は、笑顔で、キッチンのテーブルに寿司を並べる。それから、グラスを出し、食事の準備を整えた。
勝手の判らない一樹は、仕事同様、てきぱきと手際のいい静佳の動きを手持ちぶさたで見ているだけだ。
静佳は、グラスに帰宅途中で買った缶ビールを注いだ。一樹も慌ててプルトップを開け、静佳のグラスにビールを注ぐ。
「じゃ、乾杯」グラスを差し上げる。「おつかれさまでした」
一樹はビールを一気に飲み干した。静佳は、１／３くらいを口にし、それから手を合わせて、ちゃんと「いただきます」の礼をしてから、寿司に箸をつける。
「ここのお寿司はおいしいんですよ」と、静佳は言った。「でも、出前なんて滅多に取らないんですけど」
「確かに。これはいいネタ使ってる」
「でしょう」
昼間、珍しく身体を動かして掃除をしていたのと、アルコールの刺激もあって、一樹は猛烈な空腹感を覚えた。暫くは空腹を満たす事に専念する。
静佳は、そんな様子を笑顔で見守り、一樹の食欲に目を丸くし、「苦手」と言うネタを幾つか、一樹に譲った。
食事を済ませ、薦められるままにビールの杯を重ねていた一樹は、静佳の表情の変化に気付いた。
静佳は、思い詰めたような表情になっていた。アルコールのせいもあって、頬がほんのりと上気し、目が潤んでいる。
「今日は……泊まっていって」
静佳は、小さく、消え入るような声で言った。
「うん……わかった」
一樹が答えると、静佳は、顔を伏せて言った。
「――こんなに……こんなに辛いとは思わなかったの」恨み言になりかねない泣き言を言う表情を、静佳は一樹に見せなかった。「あんな仕事をさせられる女の気持ち、大賀さんには判らないでしょう」
一樹は、言葉に詰まった。
「ごめん」
それが精一杯だった。確かに、静佳の気持ちについて、本気で考えた事が一度もなかった事に気付いた。
静佳は、一樹の答えを期待していなかったように続けた。
「毎日毎日、セックスの事を考えて、妄想を形にして、それを繰り返し見て……それをいづみに入力して……
大賀さんはいいでしょ、いづみを抱けばある程度は発散出来るんだから。
でも、わたしはどうなの？
好きな人とのセックスをイメージして作ったプログラムを入れた人形を、その人が抱く――」
言ってしまってから、静佳は言い過ぎに気付いた。顔を上げる。
その顔に涙が光っている事を、一樹は半ば予想していた。
そっと椅子から立ち上がり、静佳の傍らに立って引き寄せる。
「悪かった」
それ以上の言葉はなかった。一樹は、腕の中にしっかりと静佳を抱え込むだけしか出来なかった。一樹は、抱き締めた静佳の髪に頬を寄せる。
「――して」
暫く後、小さく呟いて静佳は顔を上げた。
言葉はいらない。一樹は、静佳を抱き上げ、唇を合わせた。
静佳は、一樹の首に手を回すと、いつもの楚々とした様子からは想像も出来ない程の情熱的なキスで応えた。
唇を放し、小さなあえぎ声を漏らした静佳が脱力するのを一樹は支え、抱き上げた。
ほっそりとした静佳だが、一樹の腕には、しっかりした重さと、奥深い所から生まれる震えが伝わって来た……
いつの間にか眠ってしまったらしい。
目が覚めた瞬間、一樹は自分が何処にいるのか判らなかった。
「起きた？」
静佳の顔が目の前にあった。
一樹は、静佳のベッドで横になっていた。どのくらい眠っていたのだろうか、既に後始末もされ、静佳はシャワーまで浴びたようだ。静佳は、戯れに一樹のシャツを素肌にまとっていた。
「一樹さんの匂いがする」
と、小柄な静佳には大きすぎるシャツの袖を余らせ、悪戯っぽく笑う。
一度、身体を交えたせいか、静佳は、積極的だった。一樹に寄り添い、頬に唇を寄せた。
「ねぇ、週に１度はうちに来ない？どうせ、家に帰ってもひとりなんでしょ」
「そうだね」
呟いて、一樹は考える。静佳とだったら、こうして男と女の関係を続けて行くのもいいかもしれないな、と思う。
「……いやなの？」
「そうじゃない」
一樹は、静佳を抱き寄せた。
ほっそりして見える静佳だが、こうして抱き寄せるとしっかりした重さと存在感を感じる。それは、一樹にとっての静佳と言う女性の存在感だった。
「これから、もっと忙しくなるからさ、不安なんだ」
「だったら、都合のいい時でいいから。そうすれば、ＳＸのプログラミングも、もう少しマシになるかもしれないし・・・このままじゃ、わたし、変になっちゃう」
「……何だか、脅迫されてるみたいだな」
「うん。だから、お願い」
静佳は、まだ裸のままの一樹の胸に頬をつけてささやいた。
「わかった」
一樹は、ちょっとやっかいな事になったな、と思った。
結婚や性に対する人々の考えが開放的になった現在でも、夫婦や、内縁関係でない男女が肉体関係を持った場合、人に知られぬようにするのが普通だった。
特に、特機２課のような小チーム内の恋愛沙汰が他人に知られると、人間関係がおかしくなる事もあるので、チームリーダーの一樹は、細かく気を遣う必要があった。
「ぼくでよければ」と、一樹は言った。「こんなしょぼくれたおじさんだけどね。それでよければ……」
「ありがと」
静佳は、小さく頷き、それから得意のくしゃっとした笑顔を見せたが、今日は何だか泣き笑いのような顔になった。
それから、思い出したように言う。
「そうだ、一樹さん、お風呂まだでしたよね。わたし、先に使わせて貰ったけど、さっぱりしますから」
いつもの調子を取り戻し、ベッドから身を起こして静佳は言った。一樹が眠っている間に用意してあったのだろう、タオルと浴衣を一樹に手渡す。
「これは？」
「田舎の父が、時々来てたので、男物の浴衣があったの。一樹さんにはちょっと小さいかもしれないけど、気にせず使って」
一樹は、言われるままにタオルと浴衣を手にし、浴室に案内された。シャワーを浴び、ゆっくりと風呂に浸かる。
風呂から上がり、糊の利いた浴衣に袖を通す。やはり小さく、臑が出てしまったが、こればかりはどうしようもない。
リビングに戻ると、静佳は、部屋着のゆったりとしたワンピースに着替え、飲み物を用意していた。
「また、ビールでいい？」
「ああ」
頷き、グラスを手にした。風呂上がりの喉に冷えたビールが心地よい。
一息ついた所を見計らい、静佳は、あらたまって一樹に尋ねた。
「あの……こう言う場で何なんだけど、課長さんに幾つか訊きたい事があるんですけど」
「何だい、あらたまって。気味が悪いな」
「真面目な話」
「だから、何？」
「ひとつは、わたし、あのプロジェクトにほんとに役立ってる？」
いつになく不安げな静佳の様子に、一樹も姿勢をあらためた。
「勿論。例え、どんな事があっても、静佳、君がプロジェクト・ゼロから外れる事はあり得ない。はっきり言うけど、今抜けられたら、どうにもならない。それは全員が認めていると思う」
静佳が、動作プログラミングを行うようになってから、いづみの動作は、はっきりとした変化を見せていた。勿論、目指すべきレベルの高級娼婦にそれが相応しいかと言われるとまだまだなのだが、ほのかに女の情感すら感じさせるようになっていたのだ。
卓越したその手腕は、これまでも幾度かのプレゼンテーションで、大熊社長以下、多くの関係者が認める所だった。
ただし、その事が、どれだけ静佳本人に負担をかけていたのか、これまで誰も思い至らなかったのだが。
「よかった」と、ほっとしたように静佳は呟いた。「初めて会った日の事、覚えてる？」
「ああ」
「わたし、『大賀さんと一緒に仕事がしたかった』って言いましたよね。わたし、仕事の内容は何でもいいから、とにかく大賀さんの２課に行きたかったの」
「どうして？」
ちょっと驚いて、一樹は質問した。
「大賀さん、会社ではいつもチームのみんなと仲良く、一緒に楽しそうに仕事してたでしょ。わたしも、あんな風に仕事出来たらなぁ、って思って……」
「いや、あれは――」
一樹の仕事のやり方では、ああしないと仕事が出来ない。勿論、それには批判もあって、仕事に対する厳しさが足りないとか、仕事は遊びじゃない、と、あれこれ言われているのも承知はしていた。
それでも、結果を残して来たからここまでやって来る事が出来たのだが――
「まいったな」一樹は頭を掻いた。「あれは、ぼくの力じゃなく、みんなのおかげだよ。しかも、そう言うチームを作らないと、ぼくは仕事が出来ない」
「同じよ。わたしは、そんな２課が好きなんだから」
「仕事が辛くても？」
「これで、もう大丈夫」
静佳は、一樹の隣に座り、身体をぴったりと寄せた。
「みんないい人だし、きっとがんばれると思うから」
「さっき、泣かせてしまった時には大変な事になったと思ったんだけどな」
一樹は、ほっとしたように言った。
「あと、もうひとつ」静佳は、横から一樹の表情を伺うように見上げながら訊いた。「ピーゼロ、ほんとに売り物になると思ってるの？」
「どんな開発プロジェクトにも当たり外れはある。悪く言えば博打みたいなものだけど、手がけた以上は何とかしたいと思ってるよ」
「そんなこと訊いているんじゃないんだけど」静佳は、口をとがらせ、拗ねたような口調で言った。「だって、わたしはいづみの人体実験する訳にいかないじゃない。ピーゼロがどんなものなのか、肌で感じてる訳じゃないのよ。
零号機はともかく、試作初号機ならどうにかなりそう？」
「うーん」
一樹は、飲みかけのグラスを置いて腕を組んだ。
「本当に、ニューヨークで高級コールガールの代わりが務まるエクスロイドが出来ると思ってる？」
「……」
「ね、本心を教えて。勿論、どう思っていようと、わたしは一樹さんととことんつき合うつもりでいるけど」
「わかった。本音を言えば、無理だ。
これは、社長にも、高見沢さんにも幾度も言ってるんだけどね。でも、ほら、不可能でもやってみるのがホクトなんで、聞き入れては貰ってない。
でも、本音の部分では、今の技術では、人間の女性以上のエクスロイドが作れるとは思えない」
「でしょうね」
「さっき、君を抱いた時も、つくづくそう思った」一樹は、静佳を抱き寄せた。「こんなに素晴らしいものが、われわれ人間ごときに作れる筈がない、ってね」
「わたしを引き合いに出されても困るけど」静佳は困惑したような表情で、身体を離した。「一樹さんは、要するに出来ない事を承知でやっている訳？」
「その通り。でもね、さっき、何とかしたいと思ってる、って言ったろ。ＳＸに人間の女性を越える事が出来なくても、何かあるとは思っているんだ」
「それって？」
「産業の世界では、代用品として作ったものが、本物とは別の価値を認められて成功する事が時々あるだろ」
「例えば？」
「マーガリンは、第一次大戦でバターが不足した時、人造バターとして発明されたものだけど、現在ではバターの代用品ではなく、別のメリットを謳い、独立した商品になっている。ナイロンだって、元は絹の代用品を作ろうとして出来たものだ。
つまり、ＳＸも、人間の女性の代用としてではなく、新しい別の何かの価値を生み出して成功するかもしれない。人間を越えられないしても、商売として成り立つ何かがあればいい……最近、そう思い始めているんだ」
「……」
「期待かけられて会社のお金を使っているんだ。そのお金を出してくれた会社、働いているみんな。勿論、君も含めてね、損はさせない。それがぼくの責任の取り方だ」
ああ、なるほど――ちょっと感動して、静佳は目の前の男を見直した。こう言う人だから、わたしは、好きになったんだ、と思う。
「うん、気持ちは判った」静佳は、納得して頷いた。「でも、判らないのよね。女なんか幾らでもいて、しかも、割と簡単に寝る世の中なのに、何故、代用品が必要になるのかが」
静佳ほどのルックスで、性格もよければ女性・男性問わず友人には不自由ないだろう。
でも、男の場合は……と説明しようとしてやめた。モテない男の悩みを、理解して貰えるとは思えなかった。一樹は、気のなさそうに
「さあね」
と答えるだけにした。
「わたしたちはマーガリンを作るのかぁ……」静佳は、変な悩み方をした。「そうすると、わたしはバターってこと？」
「そうだね」一樹は苦笑し、ほっそりとした外観の割には豊かな静佳の尻に手を回した。「なるほど、脂がのってる」
「ばか」
静佳が胸の中に飛び込んで来た。