Ａｃｔ．６ 静佳
「はい……そこで、激しくあえいで。そう」
黒木静佳は、大型スクリーンの前で、３人の助手役に指示を与えながら、エクスロイド演劇の演出の最終仕上げをしていた。
８０インチのスクリーンの中では、褐色の肌をした若い娘が、大きく肩で息をつきながら、４本指の片手を壁について身体を支えていた。娘は、赤いターバンで髪をまとめているが、激しく動いたせいだろうか、ターバンが緩み、赤い髪が別の生き物のように蠢くのが見てとれた。
娘は、シャンブロウ――人の精気を吸うモンスターだ。
だが、おびえ切った様子で辺りを見回す表情は、怪物的と言うよりも愛らしいもので、逃げ場を探すように緑色の目をせわしなく動かす様は、哀れだった。
一樹は、静佳が、古典ＳＦドラマの演劇用プログラムを仕上げている所を眺めていた。
「呼んで来ようか」
と、気を利かせて言ったのは、制御設計第２課の課長の笹本だ。一樹よりも、歳は幾つか上だが、２期下の後輩になる。
「いや、キリのいい所まで見ているよ。仕事ぶりも見ておきたいし」
スクリーンの中で、生きて動いているように見える映像は、シミュレーション用だ。ただ、このプログラムをエクスロイドにインストールすれば、エクスロイドは全く同じ動きをするのだ。
エクスロイドの制御は ＨＯＳ（Human Operation
System）と言うＯＳを基本としている。
ＨＯＳは、人体の動きを、エクスロイドの制御に翻訳するシステムだ、と考えればよい。人体の動きと言うのは複雑なもので、腕１本上げるにも、様々な部位の筋肉が動き、反力を抑え、安定した動きを作り出している。
初期のロボットは、現在よりもはるかに自由度の少ない設計でありながら、それでも、こうした協調制御の為のプログラムに時間を取られていた。
エクスロイドの自由度は、数百を超える。これら筋肉を、動きに合わせ、ひとつひとつ制御するのは人間の手では不可能だ。
だからこそ、ホクトは、ＨＯＳと言うＯＳを作ったのだ。
ＨＯＳは、「腕を上げろ」と言うコマンドを入力すれば、エクスロイドの全身の筋肉をどのように動かせばよいのか判断して動かす。そう言うシステムになっていた。
このシステムを発案したのが、当時、大阪工大の助教授で、新進気鋭のロボット研究者であった高見沢であり、その実力に目をつけてホクトにスカウトしたのが大熊だった。高見沢は、このＨＯＳを構築した功績を買われて、ホクトでもっとも若い役員となったのだ。
このＨＯＳを基本ソフトとし、様々なプログラミングツールが作られていた。
今、静佳が操作しているのもそうしたツールのひとつ、「ＨＴ．ディレクター」だった。
これは、演劇演出用ツールで、ビデオや、モーションキャプチャーにより取り込んだ情報を元に、プログラマーがあたかも演出家になったように細かな芝居をつけていく事が出来るものだ。
エクスロイド演出は、ある意味、オーケストラ演奏のようなものだ。
身体の各パートごとに、どのような動きをさせるかを決め、動かし、それらが協調し、流れの中で芝居が生まれて行く。
一樹は、この物語をよく知っていたし、好きだった。美少女であり、モンスターでもあるシャンブロウの怪しい美しさが、その造形だけでなく、眼差しや身のこなしに表現され、あたかも生きているかのように再現されている。
３名の助手に次々に指示を与えながら流れるように演出プログラムを仕上げていく静佳は、まるで指揮者のようだった。その演出を、一樹は見事なものだ、と思った。
シャンブロウが、群衆から逃げ、路地の奥へ飛び込むところまで演出し、静佳は一息ついて辺りを見回した。
上司の笹本と、隣の一樹に気付く。
「このシーンはここまでにしましょう。プレイバックして」
シャンブロウの動きが再現された。
指が４本しかなく、頭髪が生き物のように動く、シャンブロウのような役は、ＶＦＸを駆使した映画ならともかく、舞台劇で登場させる事は不可能に近い。でも、エクスロイドならそれが可能なのだ。
エクスロイド演劇は、不可能を可能とするものなのだ。
プレイバックが終わると、静佳は立ち上がりながら言った。
「はーい、これで保存しておいて。多分、これで大丈夫だと思うから。次は、ノースウェスト・スミスとの出会いね。スミスは人間がやるから、実写ビデオを通しで見て、タイミングとレイアウトをもう一度確認しておいて。５分、休憩を入れましょう。
わたしは、来客があるので、このあと、少し抜けます。後は山田くん、よろしくね」
静佳は、席を離れ、笹本と一樹の方へ歩み寄った。
「大賀さん……ですよね。黒木です。はじめまして」
静佳は小柄だった。
１８０cm近い身長の一樹の前に立つと、５cmヒールのパンプスを履いて尚、頭は一樹の肩口くらいまでしかない。
小作りな顔立ちで、目も口も小さく、唇は薄く、まるで博多人形のような古風な顔立ちだ。その顔立ちと、おっとりとした口調のせいで、落ち着いては見えるが、目前にした静佳は、実年齢よりも若く、少女っぽいあどけなさを感じさせる女性だった。
「話は、既に聞いていると思いますが・・・」
「ええ、はい」
静佳は頷いた。
「じゃ、話は、こっちの会議室で」
突然の訪問だったのだが、笹本は気を利かせ、一樹を会議室へ案内した。さすがに、機密事項に類する話を立ち話で、と言う訳にもいかない。
技術者とは言え、現場に出る事のないプログラマーは、職場で作業着に着替えると言う習慣がない。静佳もその例に漏れず私服姿だった。ジーパンの上に、スモックのようなだぶっとしたグレーのワンピースを重ね着している。まとまりの悪い髪は、頭の後ろで無造作に束ねられていた。
会議室で、静佳と向き合って座った一樹は、まずは笹本に言った。
「すまない、忙しい所を」
「まったくだ。今、黒木さんを抜かれると言うのは大困りだ」
内容ほどには憤慨した様子を見せず、笹本はさばさばした様子で言った。その横で、静佳が小さく肩をすくめる。
まぁ、あの仕事ぶりではそうだろう、と一樹は思う。が、同情してもいられない。
「こっちだって楽な仕事じゃない」
「社長特命業務だものな」判っている、と言う風に笹本は頷いた。「横田を抜かれた３課もぴーぴー言ってるよ。表向きには言えないけどね。特機だってそうじゃないのか？」
「おれか？おれはまぁ、元々遊撃兵力だからさ」
一樹は冗談めかして言った。
「またまたぁ」と、笑いながら笹本は立ち上がった。「機密の話もあるだろうから、おれはこれで失礼するよ」
笹本が話を知らない訳ではない。だが、敢えて距離を置こうとする辺り、いかにも笹本らしい、と一樹は思った。
「あら」と、静佳はきょとんとした表情になった。「この話、わたし、笹本さんから聞いたんですけど」
「あまり関わり合いたくなんだろう」一樹も苦笑した。「まぁ、確かに微妙な仕事なんだけど」
「あの……正直に言って欲しいのですけど、わたしが、その……プロジェクト・ゼロのお仕事の役に立つんですか？」
静佳は、謙遜していると言う風でもなく、むしろ不安げに訊いた。
「確かに、医学的なアシストは出来ると思います。でも、そのエクスロイドは、男の人が使うんでしょ。わたし、男の人の事はあまり判らないし……そもそも、男の人のセックスの為に使うのだから、男の人で好きなようにすればいいと思うのですけど」
「うーん」いきなり、こう切り出されて一樹は唸ってしまった。「正直な話、ぼくもどうしたらいいのか判らないのだけど、このプロジェクトが目指しているのは、そうしたものじゃないんです」
一樹は、静佳の様子をうかがいながら切り出した。まだ若い彼女に、プロジェクト・ゼロの抱える微妙な話を、どのように話せばよいのか、困惑があった。
「それは、どういう事でしょう」
「社長からは、“女を作れ”と言われています」
「女……ですか？」
静佳はまだ要領を呑み込めていないようだ。
「はい。男のセックスとは、ただ、ええと射精すればいい、と言うものじゃなくて……」
と、しどろもどろに言いかけて、一樹は、言い淀むように言葉を切った。静佳は、その意味がすぐに判ったらしく、笑顔を見せて言った。
「わたし、大学では婦人科と泌尿科を修了して、医師免許を取っています。セックスに関しての話題だって、今更、恥ずかしく思うほど初心な訳でもありません。
じゃなかったら、この話、お断りしています」
「そうでしたね」一樹は、ほっとして言った。「じゃ、遠慮なく」
「はいっ」
静香は、笑顔で頷くと、姿勢を正して椅子に座り直した。揃えた膝の上に両手を置き、やや前かがみになって、話を真剣に聞く様子を見せた。
「男のセックスは、女性に対し、恐ろしく単純です。それこそ、自分の手でも射精させられるし、射精をすれば一時的にでも欲望は解消される。その点では、自己中心的で、実につまらないものです。
その補助をする為の道具なら簡単に作る事が出来る、と、ぼくは思っていました。その程度のものならね。
でも、男性が女性を求めるのは、ただ射精するためだけではありません。射精に至るまでの過程、それも自分の肉体的感覚より、相手の反応に快感を覚える部分があるんです。
まぁ、これは女性も同じかも知れません。セックスはコミュニケーションであり、お互い、相手に与えた喜びを確認する事で、＋αの快感を得る、そう言ってもいいか、と」
「はい」静佳は頷いた。「わかります」
「その＋αを与えてくれる相手を作り出す事、それがぼくたちに要求された仕事と言う訳です。
正直、今の所、どうやっていいものかも判りません。だけど、高見沢さんは、黒木さんになら、それが出来る、と期待しているようです」
「えーっ、それは――」
驚いた顔を見せた静佳の先手を取って、一樹は言った。
「買いかぶりなのかどうか、ぼくには判りません。ただ、ぼくも立場は似たようなものです。やっかいな事を任せられたものだなぁ、と。
でも、仕事ってそんなものですよね。出来るかどうかも判らないけど、やるしかない」
静佳は、覚悟を決めたように頷きいた。
「専務からのご指名なんて、滅多にない事ですよね。それだけ、期待をして頂いているのなら、期待に添えるよう、がんばりたいと思います」
「そうですか、ありがとうございます」
ほっとした様子の一樹に、静佳は、くしゃっとした笑顔を見せた。こう言う笑い方をすると、小さな目がなくなって、恵比寿顔になる。
「よろしくお願いします。わたし、実は、前から大賀さんの所で働きたいと思っていたんです」
その笑顔と答えに、一樹は、彼女とは上手くやっていけそうな気がした。
黒木静佳が特機２課に異動して来たのは、高見沢専務に回答をしてから１週間後だった。 ２課の執務室に姿を見せた静佳は、初めて出会った時から大分印象が変わっていた。
肩まであった髪はショートボブに、服装も、スリムなジーパンに、タイトフィットの長袖Ｔシャツ、それにシースルーのＴシャツを重ね着した、活動的なものになっていた。
こうして身体の線が露になる服装をすると、静佳のスタイルのよさが際立つ。
小柄でほっそりしているのだけど、胸は形よく張り、足は長く、細くくびれたウェストの位置も高い。
小柄な女性がタイプの横田が「次はああいうの作りましょうよ」と、一樹に耳打ちする程のスタイルだった。勿論、セクハラになるから注意しろ、と諌めたが。
２課のみんなに引き合わせてから、一樹は、仕事場の説明をする。
「席は、とりあえず横田君の隣に座ってください。端末は、こちらにＭＡＤを入れました」
静佳の異動に合わせ、真新しいエクスロイドの動作プログラミングマシンのＭＡＤ機が導入されていた。
「すごーい」静佳は素直に喜んだ。「新しいのじゃないですか、これ」
「メモリ１ＴＢ、クインテットＣＰＵ機だそうです」と、一樹は説明した。「制御設計の老代機を横取りしたので……笹本さんにはまた嫌みを言われそうです」
そこに、古池が、零号機の準備が出来た、と割り込んで来た。
「次は、実験室と、零号機を見てください」
「はい。お願いします」
一樹は、静佳を実験室に案内した。実験担当の古池ばかりか、他の３人もぞろぞろついて来る。
実験室は、綺麗に掃除してあった。いづみは、休息台の上に座り、充電していた。
「動かせますか？」
と、静佳は尋ねた。
「勿論。古池君、起動頼む」
「はい」古池は、いづみを予備起動させた。「音声入力、出来た方がいいですよね。起動しますのから、黒木さん、ＩＤ貸してください」
静佳が、腰につけたパスケースから、ＩＤカードを取り出して古池に渡した。古池は、それを操作端末に入れて、登録と起動操作をする。
「オーケーです。指示してみてください」
静佳は頷くと、
「いづみちゃん」と、声をかけた。「立って」
いづみは、休息台から立ち上がった。
「あ、動かす時にはなるべく近寄って、出来れば手を引いて誘導してください」と、古池が慌ててアドバイスした。「いづみ、すぐ蹴躓いて転ぶんで」
「はいっ」静佳は、素直に頷いた。いづみに近付き、恐る恐ると言う風に手を取る。「こっちへ来て」
静佳は、いづみを部屋の中央に動かすと、「脱いで」と指示した。いづみが、ナイトウェアを脱ぎ落とすと、静佳は、丁寧に観察し始めた。
「よく出来てる」
感心したように静佳は呟き、さらに触って感触を確かめる。
「わ、デカ……」
いづみの乳房を持ち上げるようにした静佳が、その重量感にびっくりしたように言い、照れたような微妙な笑みを浮かべる。
「こんな美人で、こんなに綺麗な身体・・・これで、修正もしていないんですよね？」
「表面にちょっと手を加えただけです」と、中崎。「化粧程度のものですよ」
「羨ましいと言うか、ちょっと恥ずかしくなるなぁ・・・男の人だと、こんなの見ていると妙な気分になるでしょう？」
「ならないと困ります」
と、一樹は答えた。
「いづみちゃん、ベッドに横になって」
いづみは、命令に従った。静佳は、今度は、いづみの腿を掴んで大きく開かせて、股間と性器の仕上がりを確認した。
「どうですか？」
「……これ程綺麗な人は少ないんじゃないかなあ。勿論、これも、モデルがあって修正をしたと思いますけど」
「これも修正は色くらいですね」中崎は言った。「なにせ経験がないもので、どう修正していいかも判らなくて」
「ふうん」静佳は、いづみの性器に触れ、指を入れる。手つきは、触診をする医師のそれだ。「わたしには実験してみる事が出来ないけど、この部分の具合はどうなんですか？セックス……と言うより、一種のマスターベーションなのかもしれないけど、その感触はどうなんでしょう？」
静佳は、肝心な事を躊躇い勝ちに質問した。
「まだまだの出来映えですが、それでも十分実用になります」と、中崎は控えめに答えた。「これだけは思っていた以上でした」
「実際には、感心するほどの事でもないんですよ」と、一樹が補足する。「まぁ、男のセックスがいかに単純なものか、また、ペニスの感覚がいかに鈍感なものか、と言う証明のようなものですから」
「でも、それはプロジェクト・ゼロにとって都合のいい事ですよねぇ」
と、静佳は笑った。
「じゃ、よければ今後の仕事についての説明を兼ねて、打ち合わせを行いますから、席へ戻ってください」
と、一樹は言い、古池に零号機を片付けるように指示した。
ナイトウェアを着せる古池の手つきが見ていられなかったらしく、静佳が手伝いをする。ついでにいづみの髪を漉き、身なりを整える。こうした部分で女性が入ると違うな、と一樹は思う。
特機２課では、打ち合わせは基本、全員参加。執務席で行う。
静佳を含めて、６人が席についた。全員の顔をあらためて見回し、静佳は思いついたように言った。
「そうだ、お茶いれましょう」静佳は、言うなり、腰を浮かせた。「え……と、何処でやるのかな？」
「ああ、いいです。私やります」慌てて長谷川が立ち上がる。「どうぞ、座っていてください」
「長谷川くん」静佳は、諭すように言った。「わたし、もう、お客さんじゃないんだから。仲間なのよ。一緒にやりましょ。やり方、教えてもらえる？」
２人が席を立ち、程なく、静佳が、全員のカップをトレイに載せて戻って来た。
「この人数でコーヒーサーバーがあるんだ。贅沢だなぁ」
静佳は、感心したように言って、一樹から順にカップを配っていった。
「さて」静佳が席についたのを見計らい、一樹はみなを見回して言った。「今日から黒木さんが加わって、この６人で、プロジェクト・ゼロを動かしていく事になる。
以前、言った通り、プロジェクト・ゼロは近いうちに正式に社の開発プロジェクトとして上程される。今までのような日陰仕事じゃなくなるけど、その分、大変な事になると思う。
詳しい計画と日程は、これから、役員会への提案に向けて、ぼくと三崎さんで練り上げる。それまで、みんなは零号機を使って、本格的なセクソロイドとなる今度の試作機のアーキテクチャー構築に務めて欲しい。
恐らく、零号機をベースにする訳にはいかず、今度の機体は、ゼロベースの出発になると思う。
これから、更に忙しくなると思うけど、よろしく頼みます」
一樹は、頭を下げた。
「黒木さん」
「はい」
「まだ、判らない事も沢山あるだろうけど、ここは少人数で開けっぴろげの所だから、判らない事は何でも聞いてください。
じゃ、これからの計画、まだ叩き台だけど、これを元に話をしよう」
一樹は、スクリーンに今後の業務計画を映し出した。
こうして、静佳は、特機２課の一員となった。
仕事が仕事だけに危惧はあったのだが、静佳本人の明るく、さっぱりした性格のせいもあって、目立った障害は起きず、むしろよい方の変化が目立った。
まず、執務室がこまめに整頓されるようになった。静佳自身は、そんなにまめではなく、むしろズボラなくらいなのだが、周りの方が意識してしまうのだ。
変化は周辺の方が大きかった。
特機２課は、他部署から独立しており、かつ業務内容も秘密の為、あらぬ噂話のタネにされる事が多かった。
特に、若い女性社員の間では、「２課に立ち入ると犯される」と言う噂まで流れていた。
それを耳にした時、一樹は顔をしかめたが、執務室を見回し、仕方ない、と思ったものだ。
実際、動作プログラムレビューの為にスクリーンに性交シーンが大写しになっている事があり、資料と称したＡＶソフトが山積みにされ、実験室にはダブルベッドがあって――こう言う情報は隠せないものだ――、そこで実際に然るべき事をやってしまっている。これでは、噂に信憑性を与えるばかりで、否定材料がない。
噂話だけなら放置しておいてもいいのだが、社内配達物を配る女子社員が、２課に行く事を断り、総務部まで配達物を取りに行かねばならない事態が頻発するようになると、さすがに実務に支障を来す。
静佳は、同期入社の女子社員の中では年上なので、いろいろと頼りにされる事も多く、また、面倒見もよいので、静佳を慕う女子社員も少なくなかった。
静佳は、そうした横の繋がりを利用して、２課に対する火消しを行ったのだ。
女子社員の口コミネットワークは恐ろしい。
２課に対する悪い噂話は、数日のうちに消え去り、２度と浮かび上がる事はなかった。
忙しい毎日が続いた。
まずは、セクサロイドとしての必要な機能を見極める為、まずは零号機の徹底的な駄目出しが行われた。
まず作り、そして使ってみる。そのホクトのポリシー通り、まず使い、その中で問題点が次々に浮き彫りになって来た。
動作プログラミングが最大の問題である、と言うのは、２課の面々に共通した認識であったけれど、その他にもハード面でも解決しなければならない問題は山積みだった。
その最大の問題は、意外にもエクスロイドの空間認識能力だった。
エクスロイドは、通常、眼球内にカメラを設けている。その意味では、人間と同じ視野が得られる筈だが、そうはなっていなかった。
人間、特に女性の場合、左右の視野角は１８０度に近い。だが、エクスロイドのアイ・カメラはそこまでの視野角はなかった。
この視野角は魚眼レンズが必要だが、魚眼レンズでは画像の歪みが大きく、画像認識に支障を来たすので、採用は出来なかったのだ。
解決策は、魚眼レンズを備えた広角カメラを追加装備する事なのだが、そうは言っても、まさか三つ目にする訳にもいかない。逆にアイカメラを魚眼にし、額にほくろに見せかけたピンホールをうがち、画像認識カメラをつけるか、と言うアイデアまで出る始末だった。
また、空間認識に必要な測距能力も問題だった。
人間の目の間隔だけでは、測距に必要な立体視には不十分なのだ。人間の場合、視点そのものを動かす事により脳内に周辺の空間を作り出し、距離の把握を行っているのだが、そこまでの空間認識能力はエクスロイドは有していなかった。
勿論、エクスロイドの用途には十分な能力ではあったのだが、臨機応変な対応を要求されるセクソロイドには不十分だった。
実際、いづみは部屋の配置を変えたり、障害物を配置すると、大抵躓き、転倒する事もあった。
「ドジっ子だなぁ」と笑っていられたのも最初のうちだけで、じきに古池が、そして傷だらけになるいづみの修理に中崎も音を上げた。
この対策は急務だったが、空間認識は高度なシステムであり、おいそれとどうにか出来るものでもなかった。
ロボットを開発することは、人間を知ること・・・ロボット開発者にとっての常識をあらためて思い知らされ、人間の巧緻さにあらためて嘆息する思いだった。
冷却能力の不足も深刻だった。
３０分程度ならともかく、バッテリーの容量一杯まで使うと、かなり熱くなる。
次の試作機からは、発汗機能をつける予定で、汗の蒸発の気化潜熱による冷却能力の向上は見込まれてはいたが、心もとない状況だった。
勿論、唇と口腔も、先の見えない状況だった。
中崎は、三稜化学と、新型バイオフォームの開発を進めていた。三稜は、約束通り人の粘膜そっくりの滑らかで濡れやすい親水性のバイオフォームを用意してくれた。これは、零号部品にも応用出来、具合はよかったのだが、口腔は難物だった。
人工唾液に関しては、目処が立ったものの、零号部品でも苦戦中の潤滑システムは、絶望的な難しさだった。
唾液は、出しっ放しでは済まない。人間なら、分泌しただけ飲み込むから、余程の事がない限り、よだれとなって流れ出す事はない。しかも、舌と唇を絶妙に使って口腔内を適当に湿しているし、口腔内に何か流れ込んでもコントロールは失われない。唾液は必ず食道に流れ、気管には流れ込まないようになっている。
人間を含め、動物にとっては何の事もないこれだけのことだが、人工的に模倣するとなると、どうしたらよいのか、中崎は正直、途方に暮れていた。
勿論、望めば、機材も器具も、開発費だって幾ら遣っても許される状況ではある、
しかし、それでも尚、セックスの相手である美女の唇や口腔、舌を作るのは至難の業だったのだ。
衛生面では勿論、不潔感もあってはいけないから、同じ唾液は巡回させる訳には行かないし、相手が変われば洗浄もしなければならないだろう。
そして、これら山積したハードウェアの問題の彼方に、動作プログラミングと言う難関が立ちはだかる。
やればやるほど、そして考えれば考えるほど、次々に問題が出て来る。
一樹にしてみれば、当初の予想が的中したような状況ではあるが、こうした予想が当たっても、してやったり、と言う気分にはなれないものだ。
２課の発足から４ヶ月。
プロジェクト・ゼロの産みの苦しみは、これからが本番だった。