| ＰＡＲＴ ９ ＶＳ | |
生暖かい夜風が、素肌に気持ち悪く絡みつく夜だった。
夕暮れ時から厚くなった雲が、月を半ば覆い隠している。
人気のないＭＡＣの宿舎裏で、真樹子は飛燕と向き合った。
「話、ってのは何よ？」
飛燕が、ぞんざいともとれる口調で言った。
真樹子には、少しばかり後悔があった。昼間の怒りにまかせて飛燕を呼出してみたものの、未だに、どう話しをつけるかには迷いがあった。――が、いつまでも、いがみ合っているのも嫌だった。
「――あたしの、何が気に喰わないんですか？」
「全部、と言ったら・・・あんた、怒る？」と、冗談めかして言ってから、飛燕は真樹子をじっと見据えて言う。「じゃ、言わせて貰いましょうか。大体ね、あんたがレースってのをナメてかかっているのが気に入らないね。レースってのは、お嬢さんの道楽じゃないんだよ」
「・・・そんな」
反論しようとした真樹子だが、以前、翔に言われた事を思い出して言葉を呑んだ。結局、誤解されても仕方のない立場なのだ。
「腕もない癖に、親の力だけでレーサーに乗せて貰っている奴が、でかい態度をとるんじゃない、ってえの」飛燕の口調は、また、挑発的なものになっていた。「――ったく、あんたなんかをコ・パイとして一緒に飛んでいる翔の気が知れないわ」
喧嘩の際に第三者を引合いに出す事は、フェアではないのだが、飛燕は敢えてそのタブーを破った。
「――ちょっと」相当の事を言われても我慢しようと決めていた真樹子だが、翔を引合いに出されては黙ってはいられない。「何も、飛鳥さんの事まで言う事はないでしょう？」
「本当の事言って、何が悪いんだよ。・・・この、下手糞が！」
真樹子を煽るように見る、その瞳が危険な位に挑発的だった。――穏便に話しをつけようとした真樹子だが、もうここ迄来ては感情の昂りを抑えきれない。完全に、飛燕に乗せられてしまっていた。
「――このっ！」
真樹子の頭に血が昇った。次の瞬間には反射的に手が出ていた。――が、飛燕は表情ひとつ変えずに、その手首を掴んだ。
「そう、熱くならずに・・・」飛燕は、微笑みつつ掴んだ真樹子の手首を引っ張って体を寄せた。「冷静に、話し合おうじゃないの・・・さ！」
肉を打つ鈍い音がして、飛燕の膝蹴りが、真樹子の下腹にめり込んだ。
飛燕が掴んでいた手を離す。と、同時に真樹子は膝をついた。地面に横倒しになって、呻く。
「・・・なめんじゃないってんだよ」
捨て台詞を吐き、立ち去ろうとする飛燕を、真樹子は呼び留める。
「待ってよ。これで終わりになんてさせないから」
腹を押さえ、よろめきながらも真樹子は立ち上がった。
「・・・まだやろう、っての？――あたしゃ、まだ女を病涜送りにした事はないんだけどね」
飛燕が、脅しじみた台詞を吐いた。が、真樹子は怯まない。
「――お互いにレーサーなんだから、決着は空でつけようじゃない。どう？」
「面白い」飛燕は、凄味のある笑いを見せる。夜目にも瞳が妖しく輝いた。「その喧嘩、買った。望み通り、決着をつけてやろうじゃない」
一夜明けて、翌日は曇天だった。しかも、朝方には一雨あったらしく、地面は湿り気を帯びていた。
しかし、キー８３・１号機と、「飛燕」の２機のレーサーだけはエプロン上にスタンバイし、ＶＦＲ許可を待っていた。他の機は、格納庫内に入っているか、シートを被せたままになっているのに、である。
日が高くなるにつれ、空がだんだんと明るくなる。
昼過ぎには、ＶＭＣ状態になった。
「・・・んじゃまあ、出掛けるとしますかね」
翔は、キー８３レーサーのスペック見直し検討用の資料作製の仕事に、一区切りつけて腰を上げた。
ここ迄まとめておけば、とりあえずは充分だろう、と自分に納得させるように考える――デスクワークも出来なくはないが、コックピットの中での仕事の方が性にあってる。
翔は、フライトの準備を始めた。
――フライト・プランは・・・マキちゃんが、ＶＦＲ許可が出次第、コントロールに提出するって言ってたな・・・確認はしていないけど、マキちゃんの事だから、ソツなくやってくれてるだろ、と翔は思う。
真樹子は一足先に宿舎を出ていたので、翔は自転車で絡納庫へ向かう。
エプロンの方から、レシプロエンジンの排気音が聞こえた。ややくぐもった、重い感じの音――「飛燕」のＤＢの音だな。と、翔には判った。
続いて、鋭いが力強い感じの排気音か上がった。重複している。かん高いタービンノイズと、特微的な強制冷却ファンの金属音。
（あれ？・・・ハー４３じゃないか）
どうしたんだ？と、翔は訝った。昨日から、ＬＯＩ取付け工事中の２号機が、試験運転でもやっているのかな、とも思う。
しかし、なんとなく不安に思い、翔はペダルを踏む脚を早めた。ペースを上げる。
翔が、エプロンに滑り込んだ時、「飛燕」はタキシーウェイをタキシングして滑走路に向いつつあった。そして、キー８３も・・・
（あの馬鹿が・・・！）
翔は歯噛みした。が、こうなっては最早止められるものではない。
「おい！」翔は、メカニックの中島を捕まえて、訊く。「どうして、マキちゃん１人でやらした？」
「え？」中島は面食らった様子だった。「どうして・・・って、今日は、飛鳥さんは飛ばないんじゃ・・・」
（・・・マキちゃんにまるめ込まれたな）
と、翔は思った。ぎりぎり迄、皆を通した真樹子の手腕を、それはそれで大したものだ、と、翔は妙な感心をした。
「２号機、出せるか？」
「今日一杯は、動かせませんね」
「駄目か」翔は、苦い顔をした。「――葉月君、呼んでくれ」
「飛燕」が、エンジンの音も高らかに、離陸し、上昇していく。真樹子の操縦するキー８３も、その後を追うようにして舞い上がる。
「・・・何か、用ですか？」
動カ艤装を担当するエンジニアの葉月が、駆け付けて来た。
「ちょっと、困った事になってさ・・・」翔は葉月に手短に状況を説明した。「――ってな訳でさ、これで事故でも起こされると、えらくまずい。だから、このフライトを正規のものにしておきたい」
「書類の上だけでも？」
葉月の目が、きらりと光った。何を要求されているのか、気付いたのだ。――手先の器用な彼は、文書偽造の常習犯なのである。
「そう言う事だ――まぁ、マキちゃんが仕組んだ事だから、ソツなくやってるだろうけど、あいつ、あんまり器用じゃないから」
「わかりました」
「頼む」
そこへ、須藤が息せき切って駆け込んで来た。
「おい、何で飛ばしたんだ？――飛行許可を出した覚えはないぞ」
「僕だって知りませんよ。マキちゃんが勝手に飛んじまったんですから」
「何ぃ？」さすがに須藤も顔色を変えた。「・・・まずいな」
「手は打ちます」と、翔は言った。「スムーズに離陸して行ったとこからみて、フライト・プランは出してる、と思います。あと、正規のフライトとして体裁が整っているかどうか、葉月君に当たって貰ってます」
「葉月か」須藤は少々嫌な顔をした。管理職にとっては立場の苦しい所であろう。「・・・この際、やむを得ない、か」
「――僕も、何か飛べる機を探して追っかけます」
その時、格納庫内から１機のレーサーが引き出されて来た。――Ｐ−５１「ムスタング」だ。黒い機体に、白で”ＡＡＲＣ”と入れられたシンプルなカラーリングが精悍さを演出している。
標的機か・・・？と、翔は思った。が、異常に大きなスピンナー付きの大直径２重反転式プロペラと、胴体側面に無造作に突き出した巨大な単排気管が、その判断を否定していた。
（グループＢマシンか！・・・は、凄いぜ）
グループＢ――レーシングカテゴリー・グループＢクラス１。所謂、モンスタークラスである。なにしろ、規定条件が、”プロペラ機である事”位でしかないから、大抵の機体が、４０００〜５０００shpクラスのターポプロップエンジンを積込み、最大速度も楽々と８５０km/hを突破する化け物になっている。
（こいつなら・・・あいつらに、追いつける！）
そう考えて、翔は大急ぎで装備を整えた。
その「ムスタング」のコックピットには、既に飛鳥が入っていた。
「こいつを貸してくれないかな」
と、頼み込む翔に、飛鳥は言った。
「あの馬鹿共を迫っ掛けようってんだろ？」
「なんだ、判ってるじゃないか」翔はにやり、とした。「そんなら、話は早い・・・だからさ。こいつを、貸してくれって」
「貸すのはいいが、お前、グループＢマシンなんて飛ばした事ないだろ――俺も、あいつらを追いかけるつもりだったんだ」と、言って、飛鳥は背後を指差した。「こいつ、複座だからさ、後ろに坐ってろ。フライトプランには、既に同乗者１名と言う事にしてある」
「――まさか、最初から判ってたんじゃ・・・」
翔が、びっくりしたかのように漏らす。
「当たり前だ。あいつの考えること位、判らなくてどうする」飛鳥は、当然の事のように言った。「お前もさ。自分のコ・パイの考えていること位、判らないのか？」
「俺、あいつとはそれ程長いつき含いじゃないんだ」と、言い訳するように、翔は言った。大人しく、「ムスタング」後席に入る。「・・・んじゃ、頼むわ」
「任せておけ」
エンジン始動。４０００shpを超える大出力エンジンだが、ターポプロップのせいか、音は結構、静かだ。大体、往復運動部位のないターポプロップエンジンは、レシプロエンジンに比べ振動騒音面で有利な事は確かだ。ただ、レシプロエンジンの排気音に慣れた翔には、カン高いタービンノイズは耳障りだった。
「――一体、どうやってこんな化け物をこしらえたんだよ？」
「ベースはキャバリアの『ターボムスタング』さ。そのエンジンを、『ワイバーン』に積んでたアームストロング・シドリー・パイサンに換装した。
パイサンはストックでも４０００shp以上あるし、『ワイバーン』のはコントラ・ペラも付いていたんでな」
「よ一やる」
「さあて、行くか」
「飛燕」とキー８３は、全速で，南へと飛び続けていた。
先行する「飛燕」を、キー８３が追い掛ける形である。スペック的には、キー８３の方が「飛燕」より、明らかに優速なのだが、飛燕は、キー８３が自分より前に出る事を許さない。真樹子も、ムキになって前に出ようとはするのだが、それをブロックする飛燕の方が腕が上なだけに、どうしても後追いの形から抜けられない。
両機共、スロットルはほぼ全開。速度も７５０km/h前後に達していた。いかに直線飛行とは言え、レシプロエンジン機としては破格のスピードであった。これがＣ１レーサーの実カだった。
ふと、飛燕は妙な感じを覚えた。
（・・・後ろに、もう１機いる？）
まさかね・・・と思いながらも、飛燕は頭を巡らした。が、飛燕の勘は当たった。飛燕の鋭い視カは、雲の下、ケシ粒のような機影を捉えた。――飛行機だ。飛燕は視力には自信がある。間違いはなかろう、と思った。
「こちらＮ２１９ＭＨ。ＪＡＲ００２、間こえるか？」
と、飛燕は真樹子に呼びかけた。
「ＪＡＲ００２、とれます」
「後方に、注意。――ついてくるんだ、何か」
「え？・・・まさか」
半ば訝しみながらも、真樹子は後ろを振り返った。が、よく判らない。――面倒臭いな、とばかりに、真樹子は１８０度旋回した。速度７５０km/hからの急旋回である。ぐっ、とＧがかかる。耐Ｇスーツが下半身を締め付ける。
飛燕も、それに倣う格好で旋回した。
推かに、小型機が接近してくる。なんだろう・・・と、考えた飛燕は、ある事に思い当たって、はっとした。慌てて急旋回。再び、機首を南に向ける。
「．・・・・やばいっ！」
「馬鹿っ！何が、やばいっ、だ」レシーバーから、怒鳴り声が響いた。――飛鳥の声だ。「今更、逃げるな」
「あちゃー」飛燕は、舌を出した。「――まっずー・・・」
「――飛鳥さん？」
真樹子も、え？、と言う感じで声を上げた。
「マキ！」レシーバーから、今度は翔の怒声がした。「――お前、どう言うつもりで・・・」
「・・・御免なさい」真樹子は、翔に怒られて、しゅんとした声で答えた。それでも、言うべき事は言う。「――でも、やらせて下さい」
「ここ迄来て止めるつもりはない。思うようにやらせてやるさ」と、翔は言った。「ただな、無断で飛び上がったんだからな。その分、おとしまえはつけて貰うぞ。覚悟しておけ」
キー８３の横に、グループＢ仕様の「ムスタング」が、滑り込んで来た。
（ターポプロップ！・・・グループＢマシンかぁ。道理で、追いつかれる訳よね、こいつが相手じゃあ・・・）
「――にしても、凄いわな」と、追いついた方の翔も感心していた。「全力でぶっ飛んで行くＣ１レーサーに、楽々追いついちまうんだからな・・・それも、素人が操縦してさ」
「素人で悪かったな」
「空飛んで飯喰っている訳じゃねえだろ。――でもさ、レースに出る訳でもないのに、何でこんなモンスター持ってんだよ？」
「飛燕だよ。あいつのせいさ」と、飛鳥は答えた。「並の機体じゃ、あいつの相手にならない」
「でもさ、何も、グループＢマシンを使わなくたって・・・」
「――初めて、あいつに会った時な」飛鳥は、昔を懐かしむような口調になって言った。「・・・あいつは、チェロキーで、Ｔ−６レーサーをぶっちぎって見せた。今なら、Ｔ−６で、Ｃ１レーサーと互角に空戦をやるだけの腕がある。グループＢどころか、ジェット戦闘機を用意したい位だぜ」
翔は沈黙した――翔とて、プロのレーサーである。Ｔ−６と、Ｃ１レーサーのポテンシャルの達いは判っているつもりだった。その差を、テクニックだけでカバーし切れるものだろうか？・・・翔も、自信を持ってＹｅｓとは言えない。
「・・・そろそろ訓練空域だな」と、飛鳥は呟き、通信器のスイッチを入れた。「こちらＮ５２５ＡＡ、飛鳥だ。２人共、いいか？――コンバットは高度１万ft、ヘッドオン状態からスタートだ。高度１０００ft以下でのコンバットは禁止、３００ft以下には絶対下げるな。時間は１０分、その中でヒットを多く取った方を勝ちとする。いいな？」
「――ラジャー、ボス」と、飛燕。
「はい。判りました」と、真樹子。
さすが、安全には気を遣っているんだ、と真樹子は思った。そこ行くと、翔の方は、若いせいもあるもあるのだろうが、時として無茶な事をやる時がある。
高度１万ft。
頭上を覆う雲の下面が、すぐそこ、手の届きそうな所にある。眼下にも、断雲がちらほら。まるで、鉛色の海面に雲綿を投げ散らかしたようだ。
状況は・・・よくないな、と真樹子は思った。
ヘッドオン。
速度７００km/hで接近、相対速度は実に１５００km/h以上。２機は、一瞬にして擦れ違う。
真樹子は、スポイラーを一気に開いて急減速。フルパワーをかけて１８０度垂直旋回。
――「飛燕」は？・・・旋回もしていなければ、加速もしていない。真樹子は、易々とそのバックをとる。
（・・・わざと、後ろをとらせた？）
そうだよ。後ろにつかせてやったんだから、ついて来なっ！来れるものならっ・・・と飛燕は胸の中で呟いた。 ――あたしの力を、思い知らせてやる。
「飛燕」、左ヘバンク。左旋回に入る。真樹子も、それを追う。
（・・・バンク角が、深い！）
言葉通りの垂直旋回。バンク角９０度。遠心カと垂直尾翼が生む僅かな揚カだけが「飛燕」を支える――と。唐突に、「飛燕」が真樹子の目前から、消えた。
「え？」
その時には、飛燕は、かなり高度を落としながらも旋回を終えていた。速度を利用し、失った高度をズーム上昇で取り戻す。
「おい、今のは・・・!?」
――垂直旋回から、横滑りかけやがった。しかも、その降下で、高度を速度に変換し、機速に加えてやがる。とんでもない野郎だ。操縦法の基本を、はなっから無視してる・・・奴は気違いか、天才か、或いはその両方だろう、と翔は思った。
「飛燕の得意技さ」
飛鳥は事も無げに言った。
「減茶苦茶やりやがる・・・狂ってるぜ、あいつは」
「それはどうかな」
「ヘっ！」と、飛燕は短く吐き拾てた。「――こんなモンか」
タイトターン１回で振り切れるとは、どうって事ないな、と飛燕は思う。――尤も、飛燕のタイトターンに喰い付いていけるパイロットは、ＡＡＲＣですら何人もいなかったが。
速度を落とし、再びキー８３を後ろにつかせてやる。
機首上げ。速度を高度に変える。ぐっ、とバンクして旋回に入り、更に機首上げ、そして、垂直旋回。そこで、飛燕はイン側のフットバーを踏み込む。機は、急激に機首を振り・・・そして、隆下。高度を速度に換えて、猛スピードて立ち上がる。
この一連の動作は、極めて速やかに行われる為、傍目には”垂直旋回からの内滑り”と見える。
だが。真樹子も、素人ではない。飛燕の旋回を、降下旋回の応用に違いない、と、ほぼ正確に見抜いていた。
横滑りで高度を落としているように見えるが、あんなスピードでは、Ｇの為に、まず横滑りなどしないだろうし、それに、横滑りで高度を落としていたのでは、あれ程見事に立ち上がる事は出来ない筈だ。
真樹子は、降下旋回で飛燕を追う。しかし、それでもついていけない。
（降下速度なら、そんなに差はない筈なのに・・・どうして!?）
「そろそろ、やらせて貰うよ」
と、飛燕は呟いた。攻撃に移る。
プル・アップ。高度をとる。スティックを目一杯引付け、背面姿勢から反転降下――素早く。機敏に。飛燕は、自分自身にそう命じていた――大丈夫、「飛燕」は、どんな事にだって応えてくれる。機体への信頼が飛燕を大胆にさせた。
真樹子は、飛燕の三次元機動に追従し切れない。その背後を狙う飛燕の目には、その動きは、鈍重にすら見えた。
「飛燕」が、キー８３の後方上位に占位。距離、５００ｍ。
飛燕は、ダッシュをかけた。ぐんっ、とＨＵＤに捉えた機影が迫る。キー８３は、今更のように回避に入る。
「――遅いんだよっ！」
距離、１００ｍ。飛燕はトリガーボタンを押す。――手応え、あり。と感じて、飛燕は一旦、反転した。
見事にヒットをとられた真樹子は、さすがにショックを受けていた。――こんなに、こんなに簡単にやられるなんて・・・が、いつまでもくよくよしている真樹子ではない。
すぐに気を取り直し、再び飛燕に挑む。
「――やっぱり、相手にならないなあ」と、翔は言った。「差があり過ぎる」
・・・腕前も、機体も。ま、飛燕が相手じゃ、俺だって気が重い。勝てない、とは思わないが――真樹子＋キー８３では、勝負になるまい。
大体、キー８３は、レーサーとしては大柄で、重い。その上に、それを操る真樹子の技量がまだまだだから、引き出される戦闘カなど知れたものだ。
「お前のコ・パイの彼女もな、悪くはないんだが」飛鳥が、翔の言葉を拾って応えた。「相手が飛燕じゃな・・・何度やられても喰らいついて行く辺りの、ガッツは立派なんだけどな」
真樹子は一方的にヒットをとられていた。
「ま、相手が飛燕だからこそ、あれだけ喰いついて行けるんだけどね」
何度目かの被撃墜を示す表示が出た。ＨＵＤに赤く。――最初は憤りを覚えていた真樹子も、段々と自分が情け無くなって来る。
悔し涙が、溢れた。
バイザーを上げて、拭う。機体が、不機嫌そうに揺れた。――不意に、真樹子は、以前に翔が言った言葉を思い出していた。
（『見上げたモンだよ・・・並の奴なら手前のプライドがズタズタになる前に逃げ出すものだ』）
「あたしだって・・・」声を出し、自分に言い聞かせるようにして、真樹子は言ってみる。「並じやないんだからっ！」
隆下旋回。機動性に劣るキー８３で「飛燕」を振り切るには、降下するしかない。――キー８３の最高速度は、確実に「飛燕」を上回る。パワーダイブで速度を充分に乗せている限り、飛燕とてそう容易には追尾できない。
が。
（引き起こして、水平飛行に移った所を狙う）
理屈ではない。飛燕は、直感でそう判断した。
キー８３が、機首を引き起こす――最高速度はともかく、機動性では「飛燕」の方が上だ。引き起こしてからの立ち上がり加速でキー８３を捕捉できる。そんな理屈を後からつけて、飛燕は勝利を確信した。
（――貰った！）
飛燕はダッシュをかけた。
が、キー８３との距離を詰められない。逆に開いていく。
「え？」
真樹子は、ＬＯＩを働かせていた。ＬＯＩは、液体酸素をインテイクマニフォールド内に噴射するシステムである。このシステムを使用する事により、最大出力を約２０％増大させる事が可能だ。但し、エンジンにかなりの負担をかける為、緊急時に使用する事を目的に、とりあえず最大５分間の使用を目標に実用化を進めていた。しかし、未だ完成のレベルには達していない・・・
（ぶっつけ本番だけど・・・頑張って！）
エンジン、オーバーブースト。吸収できる限界を超えたパワーに、プロペラが振動を生む。油温計の表示が異常なスビードで上がっていくが、真樹子には見る余裕はない。
真樹子は、キー８３を上昇させた。そして、急反転。背面姿勢からダイブ。機速を充分に乗せて急上昇。パワーを生かした垂直面機動で飛燕を引き離そうとする。
だか、さすがは飛燕である。この程度のパワーの差など、テクニックでカバーして、喰いついていく。真樹子は、それこそムキになって飛燕から逃げ切ろうとする。
「あいつ・・・酸素墳射使いやがったな」翔は呻くように言った。「地上試験すらロクにやっていないってのに・・・！」
それに、元々緊急用として開発中のシステムだ。大した信頼性がある訳じゃない。トラブルを引き起こす可能性は高いだろう、と翔は思った。
「マキ！酸素噴射を切れっ！」
怒鳴りつけて見たが、効果はない。大体、他人の忠告を間き入れるだけの冷静さが今の真樹子に残っているのなら、最初からＬＯＩなど使ってはいないだろう。
翔は、まずいな、と言う風に舌打ちした。
「――コントロール、回してくれ」
「なんだと？」
「あのままやらしておけなくなったんだ――早くっ！」
翔の語気に含まれた危機感と焦燥に、飛鳥は気付いた。
「・・・判った――ユーハブ・コントロール」
「アイハブ」
翔にスティックを握られた「ムスタング」は、まるで鞭を当てられた駿馬のように鋭くダッシュ。キー８３と「飛燕」がドッグファイトを繰り広げるエリアヘと突入する。
その時。真樹子は辛うじて飛燕の追尾を振り切った所だった。――今度はこっちの番だ、とばかりに、真樹子は尚もスロットル全開、「飛燕」のバックを狙う。
その２機の間に、翔の操る「ムスタング」は突っ込んだ。
行く手を塞がれた格好の真樹子は、はっとしてスロットルを戻し、ＬＯＩをカット。
が。それは、既に遅過ぎた。
キー８３の２番エンジンから、火が噴き出した。
「マキ、ベイル・アウト！――脱出だ、脱出しろっ！」
キー８３から噴き出す炎を見た翔は咄嵯に喚いた。その声に含まれた緊迫感に弾かれたように、真樹子は殆ど反射的に行動する。
真樹子は素早く機の姿勢を正し、射出ハンドルを引くと、フェイスカーテンを顔面に引き下ろし、両足をシートに引付けて射出姿勢を整えた。
まず、キャノピーが放出され、その約０．６秒後に座席が射出される。射出された座席は内蔵されたロケットモーターで上昇。ロケットは３秒足らずで燃え尽きる。コントロール・ドローグが開き、空中姿勢を安定させ、次いでスタビライザー・ドローグが開いて減速を開始。射出後、６．５秒でメインパラシュートが開傘。そのショックで座席が分離する。
大空にぽっかりと浮かんだ巨大な水母のようなパラシュートの下で、真樹子はキー８３・１号機を目で追った。
キー８３は、主に捨てられた事を恨むかのように、暫くの間、水平飛行を続けたが、２番エンジンから噴き出した炎がエンジンナセルを包んだ次の瞬間、爆発が起こってキー８３は右翼を失い、機はきりもみ状態になって落ちていった。
ひとつ間違えば、自分もキー８３と運命を共にする所だったのだ。その事に思い当たって、真樹子は改めてぞっとした。
無事に脱出した真樹子に、翔は、ほっと溜息をついた。
「ふう・・・ひやひやさせやがるぜ、まったく・・・」
翔は、メーデーを発信した。
着水した真樹子は、頭上に被さったパラシュートの下から泳ぎ出て、両脇のライフ・プリザーバーを広げた。ライフ・プリザーバーは、蛍光オレンジ色の浮袋である。それから胸のポケットに入れてある救命信号発信器のアンテナを伸ばしてスイッチを入れる。
泳ぐにはまだ早い季節だ。海はまだ冷たく、容赦なく体温を奪う。それでも頭上を旋回する「ムスタング」と「飛燕」が見守ってくれている為、まだ我慢出来た。救助されるまでの辛抱、と考える。
「救助の予定はどうなってる？」
と、訊く飛鳥に翔は答えて言う。
「海自のＵＳ−１がこっちに向かってるってさ」
「そうか、よかった」と、飛鳥は言い、それから、ちょっと言いにくそうに切り出す。
「見守ってやりたい気持ちは判るが、ガスがちょっと心配だ。そろそろ帰らんと・・・」
「なんだよ。燃費の悪い飛行機だな」
「満タンにしてなかったんだよ。それに来る時、ちょっと飛ばし過ぎた――これ以上ここにいると、下手すると厚木まで帰れん」
「でも、なあ・・・」
と、渋る翔に飛鳥は言った。
「今の季節、海は冷たいだろうな。それでも、お前、海水浴するか？――するなら、お前、ひとりでやれよ。俺は嫌だぜ」
「・・・仕方ない、帰ろう」
翔は、二度、翼を振って真樹子に合図を送ると、旋回を止めてその場を後にした。飛燕もそれに倣う。
遠ざかる２機を見て、真樹子は急に心細くなった。１人になる事がこれ程、怖かった事はない。
「飛鳥さん・・・なんで」聞こえない事か判っていながらも、置去りにざれた迷子のように、真樹子は涙声を張り上げた。「飛鳥さん！・・・あ」
大声を上げかけた所へ波をもろにかぶり、海水をしこたま呑み込んで真徹子は激しく咳き込んだ。その時には、既に「ムスタング」と「飛燕」の姿は見えなくなっている。
真樹子は、見渡すかぎりの大海原の中、唯１人取り残された。