ＰＡＲＴ ７ 隼
初夏の陽射しに海面がきらめく。
相模湾上空、高度６０００ft。飛行訓練の為、訓練空域に向けて飛行中の事だった。
「針路上、接近して来る航空磯あり。注意せよ」
と、厚木コントロールから連絡が入った。
「どこだ？・・・見えるかな？」
「２時の方向。高度は約５００ｆｔ、あっちが高い。ＡＯ（アングル・オフ）１１０度。――多分、ニアミスにはならないと思いますけど」真樹子は互いの針路をチェックし、答えた。「・・・この距離だとどうかなぁ、見えるかな？」
翔には、ビン、と来るものがあった。訊いてみる。
「確か・・・ＨＡＲＴ、今日厚木入りだよな？」
「はい。今日の予定だと聞いています」
「それだっ！――マキ、針路変更。接触して確認する」
「え？何で？」
「星野の親父さんにな、挨拶するんだよ」
キー８３は、予定の針路を外れ、旋回。一旦、目標とする機のコースと逆行する形になる、ラグ追尾カーブをとって接近する。
目標の機の左後方から接近。白い、ほっそりとした単発機。やはり、レーサーだ。――中島キー４３・一式戦闘機「隼」だ。軽快な運動性を誇り、三菱の零戦と並び賞された”最後の軽戦”である。
（星野さんも、よくやる。「隼」で、Ｃ１に挑戦かよ）
１００ｍ程の距離をとって、ピタリと「隼」に並ぶ。
「わあ・・・素敵！」
真樹子は思わず声を上げていた。――純白の機体。それを、胴体上部に入れたコバルトブルーのアクセントラインで引き締め、尾翼にはシンボルマークの星印。シンプルで、かつセンスのいいカラーリングだ。それが、ほっそりとして優美な「隼」の機体に、この上もなく似含っていた。
（深雪ちやんのデサインだな）
と、翔は思った。――あの子のセンスの良さは抜群だから、と思う。
翔はキー８３の機体を僅かに前に出すと、翼を振った。「隼」は、少し考えてでもいるかのように間を置いてから、翼を１度だけ、振った。
「マキ、コンバット・スタンバイ」
「やるんですか？・・・やっぱりなぁ」
「当り前だ――”空の魔術師”と呼ばれる星野和正と空戦ができるなんて、いい経験だ。目ェしっかり開いてよーく見てろよ」
「はーい」
翔は、キー８３を全力で上昇させた。高度をとる。「隼」は、旋回。相模湾外へ機首を向ける。
（さすが・・・気を遣ってくれてる）
真樹子は微笑した。このまま、相模湾上空で空戦をやっていたら、また須藤さんの雷が落ちる所だったな、と思う。
（そうだ。「隼」をレーサーにすると、どの位のポテンシャルがあんだろ？）
ふと、思いついて真樹子は腿のクリップに留めてある記録板の上に電卓を出した。
（「隼」って言うと・・・自重は１．５ｔ位。フェリーして来たんだから、燃料はなくなってるよね・・・それじゃ、重量は、２ｔを切るな。――翼面積は・・・２０ｍ^2位かな。――エンジンは、「栄」じゃなくて「金星」を使うよね。ハー４３とシリンダーサイズ同じだから・・・「金星」なら、チューニングすれば２０００馬力は確実、っと）
「げ」
馬カ荷重１kg/hp以下。翼面荷重、約１００kg/ｍ^2。
それに較べ、キー８３は、馬力荷重１．３kg/hp、翼面荷重２７０kg/ｍ^2。――つまり、データ上、最大速度と急降下速度以外にキー８３の勝る所はない。
「飛鳥さんっ――」
真樹子が一言、翔に注意しようとした時には、キー８３は既にダイブの体勢に入っていた。
「――格闘戦に入ったら勝ち目ないですよ！」
真樹子は辛うじてそれだけ言った。
「わかってるっ！」
「隼」の白い機体が、青縁色の海面をバックに、ＨＵＤの中、鮮やかに浮かび上がる。――と、その姿が小さくなった。加速したのだ。
翔は、スロットルを開け、パワーダイブでスピードをつけて追撃する。
次の瞬問。「隼」が唐突に機首を上げた。そのまま信じられないような速度で上昇していく。
「は・・・凄えや」
翔も、さすがに感嘆の声を押さえられなかった。
（ＨＡＲＴお得意の、上昇性能と加速、旋回性能重視の軽戦型レーサー、って訳か・・・ならばっ！）
軽戦を圧倒するには、一撃離脱戦法のみ。優速とパワーにものを言わせて戦闘の主導権を握り、守勢となったら、急隆下で逃げる。これしかない。
プルアップ。こっちも高度をとる。「隼」は、上昇をやめて、水平旋回。
格闘戦に引き込まれては勝ち目はない。翔は、上昇姿勢のまま「隼」を視認涜けるようにロール。速度を高度に変換し、背面になった所で、「隼」の６時方向へ追尾降下。
「隼」は、旋回姿勢から、更に内側に切り込む感じで急旋回。キー８３は追尾しきれずに、オーバーシュート。「隼」は、急反転して切り返し、キー８３の後方に喰いつく。
翔は、ダイブして、逃げる。「隼」は追って来るが、急降下速度ならキー８３の方が絶対に速い。翔は、スロットルを絞り気味にして隆下しているが、「隼」の方は、スロットルを全開にしている筈だ。
（・・・今だっ！）
７．５Ｇ引き起こし。エンジンの余力を生かして上昇、そして、ロール。背面姿勢から降下。
あっと言う間に攻守が逆転し、今度はキー８３が「隼」を追う体勢となった。
しかし、翔がレチクルの中に「隼」を捉えるより早く「隼」は、スポイラーを開いて急減速、旋回。機を大きく滑らせて射線から逃れ、そして、切り返し。
「隼」の前に出てしまいそうになった翔だが、とっさに旋回して切り返し、なんとか位置を保った。
シザースになった。互いに後方占位を狙う激しいドッグファイト。翔は、いつの間にか格闘戦に引き込まれてしまっていた。
そして、何度目かの切り返しの時。
翔は、ＨＵＤに被撃壁表示が赤く浮き出るのを目にしてショックを受けた。
「な・・・なにっ!?」
いつの間にか、「隼」が真後ろに、ぴったりと貼り着いていた。
どうだ、と言わんばかりにゆっくりと翼を振って合図をし、「隼」は上昇旋回。再び、厚木に向かうコースをとる。
小さくなって行く、その機影を見送りながら、真樹子は思った。
（”空の魔術師”か・・・成程ね。凄い）
機体もさることながら、翔を凌ぐか、と思わせるその腕前を、真樹子は素直に凄い、と思った。
「――コースに戻る。マキ、ナビ頼む」
「あ、はい」
翔は、針路を南にとり、訓練空域へと向かった。
その日の夜。
「星野さんの所に挨拶しに行くけど、マキちゃんも来るかい？」
と、翔は真樹子に声を掛けた。
「あ、行く、行く」
真樹子は、ふたつ返事で応じた。翔の後を追う。
ＨＡＲＴに割当てられた宿舎は、ＭＡＣの宿舎から少し離れた５階建てのアパートの一室だった。但し、ここに入れるのは星野父娘だけで、他は基地外のアパート住まいになっていると言う事だ。ＭＡＣの宿舎の隣に建てたプレハブは、資材倉庫に使うと言う事だが忙しくなれば、そこで雑魚寝するメカニックが出て来るに達いない。
下駄替わりのスタリオンをアパートの前に停め、アパートの３階、早くもＨＡＲＴと表札の掲げられたドアをノックする。と、すぐに、
「どちら様ですか？」
と、女の声が答えた。アルトの、ややハスキーな声。深雪ちゃんだな、と翔は思った。
「三菱の、飛島ですけど」
「――どうぞ」ドアを開けたのは案の定、深雪だった。「今晩は」
星野和正の末娘、深雪は現在１９歳。小柄で、スレンダーなプロポーション。丸顔でおっとりした感じの顔立ちはまだあどけない。しかし、控え目で優雅な物腰には、年齢以上に大人びた感じがあった。
「親父さんに挨拶しに来たんだけど・・・ちょっと、いいかな？」
「父さんに？どうぞ、中ヘ」深雪は二人を招き入れた。それから、ちょっと済まなそうに付け加える。「――まだ、引越しの片付けの最中だから、汚いんですけど、勘弁して下さいね」
「あ・・・ごめん。邪魔しちゃったかな」
尤も、翔の見た限り、見苦しい程に散らかってはいなかった。
翔と真樹子はリビングトームに案内された。部屋の一角には、半ば梱包を解かれた荷物が片付けられるのを待って積み上げられている。
ソファに腰を下ろして、待つ。
「――翔、久し振りだな」
「今晩は」声に振り向き、翔は挨拶をした。「昼間はどうも・・・やっぱり、まだ星野さんには、かなわないですね」
「昼間・・・？」
星野和正は、怪訝そうな顔をした。その様子を見て、翔は、首を傾げた。意味が伝わらなかったかな？と、思う。
星野は、翔の前を横切って、ソファに腰を下ろした。その時になって、翔は星野がひどく脚を引き摺っている事に気付いた。
「――星野さん、その足・・・」
「ああ」星野は、少し寂しげに笑いながら言った。「――聞いてなかったのか？去年、ちょっとした事故をやってな・・・なにしろ、もう年だろ。医者も、もう元には戻らないだろうと言ってる」
「それじゃ・・・今、『隼』を飛ばしてるのは？」
「深雪だよ」
「本当に？」
翔も、さすがにそこまでは気付いていなかった。
「ところで」と、星野は翔に尋ねた。「――彼女は？」
「あ。ああ・・・僕のコ・パイの――」
「橘、と申します。よろしくお願いします」
真樹子は、翔の言葉尻を受けて、自己紹介をした。改めて、ペこり、と頭を下げる。
「コ・パイか・・・碓かに、お前が１５００kmをやろう、ってんだから、コ・パイも必要になるわな」
「放っといて下さい。どうせ、僕はスプリント向きの飛ばし屋ですよ」と言って、翔は苦笑した。「――それにしても、深雪ちゃんもなかなかやりますね。あれ程までになってるとは思ってもいませんでしたよ」
「・・・それが昼間の、ってことか」
と、星野は納得した。
「訳わからないうちにやられちゃって・・・てっきり、”魔術師”の仕事だと思ったんですけどね」
「なあに、まだまださ」と、謙遜しては見せたものの、娘を誉められ、星野はさすがに嬉しそうな表情を隠せない。「機体に大分助けて貰ってる」
「そんな事はないですよ。いくら機体がよくたって、あれだけやれるパイロットは、ザラにはいないでしょう」
本当にね・・・真街子もそう思った。
「どうぞ」
深雪が紅茶を入れてくれた。
「あ、どうも。頂きます」
と、応じながら、真樹子は改めて深雪を観察した。――こんな華奢な子が、よくあそこまでやる、と感心せずにはいられない。
尤も、真樹子自身、身長１５４cmで体重は４５kgと、決して恵まれた体格ではない。それでも、鍛えた身体には筋肉がついている。身体の厚みもあるし、肩幅も広い。
それに較べ、深雪ば背丈こそ真樹子より少しはありそうだが、体格はほっそりとして、とてもＣ１レーサーを思うがままに振り回せるとは思えない。しかし、その彼女が、キー８３に乗る翔を翻弄したのは事実なのだ――人は見かけによらないなぁ・・・と、真樹子は思った。
「深雪ちゃん」と、翔は深雪を呼び留めた。「昼間の、あの時さ、シザースの最中に、妙な事やって後ろに回り込んだろ。よかったら、何をやったのか教えてくれないか？」
「・・・あれ、ですか？」深雪は、ちょっと考えてから、ゆっくりと言葉を選ぶようにして答えた。「シザースの切り返しの時に、切り返さずにマイナスＧをかけたんです」
「マイナスＧか・・・思いもしなかったな」翔は呻くようにして言った。「――にしても、マイナスＧで、よく機をコントロール出来るな。体が浮き上がっちゃうだろ？」
「フェリー中で、ベルトを緩くしてたから・・・脚を突っ張って、キャノピーに頭を押し付けて体を安定させていたんです」
と、淡々と語る深雪の横顔には、既に独特の風格が漂っていた。――大空の魔術師の２代目の誕生だな、と翔は思った。
「ね・・・深雪さんって、どんな人なんです？」
宿舎に戻ってから、真樹子は翔に訊いた。
「どんな、って・・・」リビングルームのソファで、明日のスケジユールの確認をしていた翔は、真樹子の唐突な質間に困ったような顔をした。「――何でだい？」
「え・・・そうだな」真樹子は、鼻の下を指で擦るような仕草をした。ちょっと、考え事をしているような感じだ。それから、言う。「――何か、ただ者じゃない、って感じがするでしょ？だから・・・」
「まぁ、そうだな」翔は頷いた。「とにかく、頭のいい子だよ。いつだったか、星野の親父さんが言ってたっけな、『ハーバードへ奨学金付きで入れる』ってね」
「ハーバード、って・・・」真樹子は息を呑んだ。「それで、入ったんですか？」
「いや、性に含わないって言って、ＣＡＬＴＥＣ（カルフォルニア工科大）に入った」
と、翔は言って、それから、思い出したように切出した。「――そういや、マキちゃんは大学、どこ出たんだっけ？」
「日大の埋工学部。航空苧宙工学科」
「ああ、知ってる」翔は納得した。いかにも真樹子らしい、と思ったのだ。「人カ飛行機で有名な所だろ」
「あれ、あたしもやりたかったんだけどなぁ・・・」
「何だ、あれって皆でやる訳じゃないのか」
「うん」真樹子は頷いた。「希望者は多いんですけどね。・・・それに、あたしは４年位からは、こっちの方が忙しくなって――大体、お情けで卒業させてくれたようなものだから」
「ふうん」
「――それにしても、深雪さん、凄いですよね」真樹子は話題を元に戻した。「あれで、どの位、飛んでいるのかな？」
「単独じゃ、せいぜい３〜４００時間、ってトコだろう」
「え・・・そんなもんなの」
真樹子は、ちょっと意外に思った。あの腕前からして、４００時間の飛行時聞は少ないもののように思えたのだ。しかし、１９歳と言う年齢からすると、かなり飛んでいるな、と思わざるを得ない。大体、真樹子自身、単独飛行時間は２５０時間足らずに過ぎないのだ。
「ただな、あの子が初めてスティックを握ったのは１３の時だぜ．それから、何だかんだで、２０００時間位は飛んでいる筈だ。――主にコ・パイとしてね」
「コ・パイ？」
「そう。それも一流のね」
「あたしよりも？」
真樹子が言わずもながな事を訊いた。
「フライトマネジメントに関して言わせて貰えば、はっきり言って比較にならない」
「ひっどいなぁ・・・あんまりじゃないですか」
真樹子は、頬を膨らませ、口先では拗ねてみせた。尤も、目は笑っている。
「あ、ごめん、ごめん」翔は、それでもとりなして言った。「別に、マキちゃんが悪いと言っているんじゃないさ。深雪ちゃんがね、並じゃないんだ――そのうち、判ると思うけどね」
星野エアレーシングチーム、キー４３「隼」。
その設計思想は明確だった。
第一に、加速性能と上昇性能を重視し、極端な高速度は要求しない。かつ、機体は出来る限り、軽量化し、軽快な運動性を得る。
この方針にそって、機体のチューニングは徹底的に行われた。
まず、機体補造は、全て複合材で作られている。実際、エンジン以外には、殆ど金属材料は使用されない。更に、機体の組立は、その殆どを接着としてリベット等のファスナー類を廃止、ボルトやナット類もチタニウム製として軽量化、しかも、ボルトは軸の内部に穴を開け、ナットも高さをぎりぎりまで低くした。
エンジンは、三菱のハー３３、「金星」。ハー４３と共通のシリンダーを使用する１４気筒エンジンは、最高出カを敢えて１８００hpに抑え、軽量化を図った。
シリンダーは過珪素アルミ合金によってオールアルミ化、クランクケースはマグネシウム合金製で、クランクシャフトは当然、中空。コンロッドに至っては、何とカーボンファイバー製だ。
こうして、自重僅か１０５０kg、全備重量でも約２ｔと言う、恐ろしく軽い機体が出来上がった。
この機体に組み合わされる翼は、翼面積１８．５ｍ^2、翼型は、キー４３の設計者、小山悌が得意とする前縁を一直線としたテーパー翼ではなく、スピットファイアのような美しい形状の楕円翼とした。
楕円翼は、空力特性に優れ、又、同じアスペクト比なら横転速度は最も速いからだ。その翼に、殆ど全翼幅に及ぶ大型の蝶型フラップを設けた。フラップは、当然空戦フラップとしても使用する。
横操縦はスポイラーによるが、舵の鋭敏さを保つ為に、補助的な意味で翼端部に小さなエルロンがつけられている。
エンジン出カは１８００hpと、Ｃ１エアレーサーとしては、異例な程小さい。が、徹底した軽量化により、馬カ荷重は全備重量でも、約１kg/hpと、かなり小さく、翼面荷重は１０８kg/ｍ^2と、他に例を見ない軽さを誇る。
結果として、最小旋回半径は、約８０ｍと言う極めて小さい値となった。この値は、軽戦の極致と言われたキー２７のそれに匹敵する。
更に、特筆すべきは、その凄まじい上昇性能で、海面上昇率３０００ｍ/min以上、高度６０００ftまでの上昇時間は４０秒を下回り、１００００ｆｔに達するまでに、僅か１分しか要しない。
ただし、翼面荷重を低く抑えた為に、最高速度は、ぱっとしない。それでも、機体表面の平滑化によって抵抗減少に務め、海面上でも７４０km/h近い速度を得る事が出来た。
最高速度より、加減速の速さ。旋回速度の向上より旋回半径の縮小。
レースフィールドに、軽戦を復活させる――星野の狙いは、そこにあった。
外は雨。
格納庫内では、この雨を利用して、機体の徹底的な整備が行われていた。
翔と真樹子はトレーニングの合間を縫って、格納庫に顔を出した。パイロットにとってメカニックの仕事振りをゆっくりと見る機会など、こんな時以外に、そうそうあるものでははない。
午後のトレーニングには、レクリエーションを兼ねて、横浜市内の温水プールでの水泳を予定していた為に、真樹子はトレーニングウェアを私服に着替えていた。
真樹子の服装センスは、どちらかと言うとトラッド系のものだ。ちょっと流行りからは外れた感じだが、センス自体は悪くない。
服を汚さぬように気を遺って機体を見ていた真樹子の、足元で作業をしていた真琴が、その姿に目を留めた。
「・・・羨ましいなあ」
と、真琴は溜息混じり言った。
「え、何が？」
「脚、です」
真琴は、真樹子の脚を指差した。
身長１６４cm、日本女性としては長身で、すらりとしたプロポーションの真琴の目にも真樹子の脚線は魅力的に映るらしい。
「どうしたら、脚って細く出来るんです？」
「立ってる時にね、時々、爪先で立つようにするんだよ」と、真樹子は実際に爪先立って見ぜた．「脹ら脛の筋肉を使う訳。足首か締まれば、脚って綺麗に見えるんだよね」
「え一、何か疲れそう・・・」
「努力を惜しんじゃ駄目だよ」
真樹子はそう言って、笑った。
その時。
翔は、外板の外されたキー８３のエンジンナセルの傍らに立つ深雪に気付いて声を掛けた。
「深雪ちゃん。いいのか？『隼』放っておいてさ」
「いいんです。うちのは手がかからないように出来てるから」
と、一旦振り返って深雪は答えた。再び、エンジンに視線を戻す。
「――このエンジン、タービンを２つもつけてるんだ・・・」
妙に感心したかのように、深雪が呟く。
「ああ、２個目のタービンで、パワーを回収してジェネレーターを駆動するんだ。ターボ・コンパウンドも考えたらしいんだけど、そこまではまだやってない」
と、翔は説明したが、深雪にとって翔の説明など蛇足に過ぎないだろう。それでも、深雪は納得した表情を見せて頷いた。
「・・・ジェネレーター駆動用ですか」
――それなら、いいアイデアがあるのにな、と深雪は思ったが口には出さない。
「そうそう」翔は、ふと思いついて訊いてみた。「例の、あれさ・・・１人でもやってるのかい」
「ええ」深雪は頷き、すました顔で付け加えて言う。「１人だと私が操縦もするから、かえって正確になります」
「参ったな」翔は苦笑した。「・・・今度、やる時には教えて貰えるかな」
「構いませんけど・・・何でですか？」
翔は、真樹子を指差した。
「彼女に見せてやりたくてね。あれを・・・」
適度な陽射しと、透明な感じの爽やかな風。
朝が気持ちのいい季節になってきたな、と真樹子は思う。
前日の雨の名残りの水たまりが残る飛行場を、真樹子はのんびりとしたペースで走る。
体を動かす事が嫌いな性分ではない。もう少しペースを上げれば、走ると言う行為自体に熱中出来る事は判っていた。しかし、こんな朝は、そんな走りはしたくない。失うものがあまりにも多過ぎる。
真樹子は、走りながら、出会う人に誰彼となく明るく挨拶をする。特に意識してやっている訳じゃない。それが当然、と思う真樹子だった。
ＨＡＲＴほ、もう「隼」をエプロンに引き出していた。白金の輝きを帯びる朝の光に、純自の機体が、美しく映える。
「おはようございます」
「隼」の周りで１忙しく働くＨＡＲＴのクルー達に、声を掛けた真樹子は、その中に見知った顔を見付けて、思わず足を止めた。
「――あ、天城先輩！・・・わあ、お久し振りです！」
「やあ」天城先輩、と呼ばれた男は振り返った．人壊っこそうな笑顔を見せる。「おはよう。マキちゃん、相変わらず元気がいいね」
「どうしてここに？」
「一昨年から、星野さんの所にお世話になっているんだ」と、天城は快活に答えた。「――ここには、咋夜遅くに着いたばかりだから、顔合わせる機会がなかったんだね」
彼――天城恭一――は、真樹子の大学の２年上の先輩になる。真樹子が、天城と知り合ったのは、大学のサークルの軽飛行機班での事だ。控え目で地味な性格だが、飛行機と、そして、空を飛ぶ事を何よりも深く愛している天城に、真樹子は密かに恋心を募らせた事もあった。
「でも、凄いな。星野レーシングに入ったなんて」
「ま・・・いろいろとあってね」
天城は、曖昧に答えたが、実の所は、楽をしてＨＡＲＴの一員となった訳ではなかった。
現在の日本の航空産業は大きくない。大学で航空宇宙を専攻した仲間内でも、航空関係の仕事に就ける者は数少ない。
天城は、それが嫌だった。どうしても、飛行機関連の仕事をしたかった。金なんか、貰えなくたっていい、とさえ思った事もある。
そんな天城を、心から魅了したのがエアレースだった。
レシプロエンジン付き航空機、と言う限られた枠の中で、誰よりも速く飛ぶ・・・その為だけに、最高級の人と機体と技術が、惜しげもなく注ぎ込まれる。
その世界に天城は接れ、そして、その世界こそ、自分の歩む道と定めた。
――エアレースをやりたい。そう言う天城を周りの誰もが止めた。が、天城の決意は揺らがなかった。
大学を卒業した天城は、迷わずに日本を出た。
ロスアンゼルスヘ飛び、星野和正に会って、自分を使ってほしいと頼み込んだのだ。最初は駄目だ、と首を横に振り続けた星野も、１過間もぶっ通しでまとわりついた天城の熱意には負けて、最後には頷かざるを得なかった。
”金はいらない”と、口を滑らせた天城の言葉通りに、星野は彼に１セントすら与えなかった。天城は、ＨＡＲＴで見習いメカニックとしての仕事をこなしつつ、バイトをして生活費を稼がねばならなかった。金が欲しくなったら何時でも言え、と星野は言った。日本に帰る為の航空運賃ならいつでも出してやる、と。
毎日が目の回るような忙しさだった。そして、金銭的には最低に近い状況だった。１週
間を僅か１ドルで過ごした事もあった。食費にも困ってホテルの残飯を漁った事もある。
が、天城は、望み続けたエアレースに携わる仕事を得ただけで有頂天になっていた。どんな苦労も苦にはならなかった。そんな飛行機バカを憐れんでか、星野は、半年目にして天城をメカニックとして、正式に雇ってくれた。
しかし、天城はただの飛行機バカではなかった。人力飛行機の製作で学んだ軽量化へのアプローチは並ではない。
それは、今回の「隼」の製作で存分に活かされた。
天城は、殆ど偏執狂的なレベルで機体の軽量化に取り組んだのだ。アメリカ人技術者が口を揃えてクレージーと言う凄まじさである。星野和正ですら、彼がいなかったら、「隼」は１０kg、いや３０kgは重くなったかもしれない、と語った程だ・・・
エプロンの「隼」は、燃料タンクのドレンコックを開いて、タンクを空にしつつあった。気化するガソリンが陽炎を作り、刺激臭を撒き散らす。
「何をするんですか？」
真樹子が、ガソリンの蒸気に顔をしかめつつ訊いた。
「何をって・・・」天城は、ちょっとの間、言棄を探し、答える。「フライト・マネジメントの訓練、って所かな。ただ、半分は深雪ちゃんの趣味みたいなものだけどね」
「星野さんの所、何をするつもりなんだろ？」
朝食の席で、真樹子は翔にも訊いてみた。――あれから、「隼」の燃科タンクが全て空になっている事を確認して上で、深雪自らガソリンをタンクに注ぎ入れたのだ。しかも、厳密に計量しながら・・・
「深雪ちゃんはね、今日、１５００km飛ぶ、と言ってた」
「１５００km・・・２時間半かな」
「予定では、２時間４５分だと。・・・７時４５分離陸。戻って来るのは、１０時半の予定になってる。――うちの方は飛ぶのは午後になってからだよな？」
「そうです」
「１０時２０分にハンガーの前に行ってみな」と、言って、翔は悪戯っぼく笑った。「面自いものが見物出来るよ」
「え？」
真樹子は首を傾げた。つぶらな瞳を見開いて、きょとんとした顔をする真樹子に、翔は答を与えたくなるのを我慢して言った。
「行けば判るさ・・・先刻、マキちゃんが訊いた事もね」
翔に言われた通りに、真樹子は１０時２０分にはエプロンにいた。
２０分をちょっと過ぎて、翔も姿を見せた。「隼」はまだ戻って来ない。
「・・・まだかな」
真樹子が時計を見ながら呟く。
「もう少し」と、翔。「深雪ちゃんが１０時半に戻る、と言ったんだから、それこそ１０時半ジャストに戻って来るさ」
それから間も無く、翔は、南の空に、微かな白点を捉えた。――「隼」だ。
「来た」
と、翔は言ったが、真樹子にはまだ目視出来ないらしい。空を見上げて首を傾げている。
それから３０秒もして、漸く真樹子は「隼」を視認する事が出来た。
「隼」は、降下、着陸進入。コースは滑走路に対し、３マイル、オフセット。マニュアル通りのＶＦＲランディングアプローチだ。
スレッショールド対向。ギア・ダウン。旋回、降下開始。そして、ファイナルターン。フラップ・ダウン。スレッショールド速度まで速やかに減速し、スレッショールドを高度５０ftで通過。
着陸目標を視認。機首を引き起こす。スロットルを紋り、速度を失速速度ぎりぎりまで落とす。高度を下げ、更に減速・・・ふわり、と機が沈み、３つの車輪が同時に地面を捉える。
見事な３点着陸だ。
（キー８３じゃ、ああはいかんわな。零戦なら俺にだってあれ位出来るんだが・・・）
と、翔は思った。――翼面荷重が２５０kg/ｍ^2を超えるキー８３では、ジェット機並の推カ着陸を行わなければならない。「隼」の真似はしたくても出来ないのが実状だ。
軽い機体を浮き上がらせないように気を遣いながら、「隼」はタキシングしてエプロンに戻って来た。格納庫前でエンジンを止める。
「さて、結果はどうだったかな？」
と呟きながら、翔は「隼」の方に向かった。真樹子も、訳の判らないまま、後を追う。
「隼」に取り付いたＨＡＲＴのメカニック達は、再びタンク内のガソリンを抜き始めていた。抜いたガソリンの量を計る。
計り終えた頃を見計らって、翔は声をかけた。
「どうだった？」
「２２リットル、余りました」
深雪は、ただ結果だけを口にした。
「２２リットル？」真樹子が驚きの声を上げた。「それしか余らなかったの？」
「私の計算では、残量は２０リットルの筈だったんです・・・それだけあれば１５分は飛んでいられますから、予備としては充分ですよ」深雪は、ちょっと表情を曇らせて続けた。「なんで、２リットルも余分に余っちゃったのかな？」
「・・・２リットル、も？」殆ど呆れながらも、真樹子は言ってみた。「大体、１５００km飛んで、燃料消費量を計算通りに持って行こうなんて、無理なんじゃないの？」
「・・・無理、ですか？」深雪は、微かに面白くなさそうな顔をした。「でも、私なら――」
――私なら、燃料残量を計算値の±１０％の範囲内にする事は出来る・・・と、深雪は言おうとしたのだが、途中で止めた。口先だけで自分の技量を誇るような真似は性に合わない。
「でも、何？」
途中で言葉を呑んだ深雪を不審に思って、真樹子が先を促した。
「――無理かもしれないからこそ、やってみるんです。誰もやらない事だから、私がやるんです」深雪はそう言って、真樹子に笑みを投げかけると、身を翻した。「――天城さん、あと、お願いします」
真樹子は言葉を失って、その後ろ姿をただ見送った。
「――なにも、あそこ迄やれ、とは言わないけどね。人間の力で、マシンをあそこ迄コントロール出来るんだよな」
と、翔は言った。はっとして振り向いた真樹子に、念を押すようにして翔は続けた。
「・・・と、言う訳で、専業コ・パイの真樹子さん、この事を頭に叩き込んで、頑張って下さい」
「・・・はい」
真樹子は力無く答えた。
「全米チャンピオンシップ第３戦の結果速報です」
と、真樹子が翔の部屋に顔を出したのは、その日の夜の事だ。
真樹子は数枚の書類と一緒に、飲み物を用意して来ていた。翔には、大きめのカップに
注いだコーヒー。真樹子の方は、ホットミルクだ。
「お、サンキュ」
翔は、明日のフライトプランのチェックをしていた手を休めて、コーヒーカップを受け取った。
真樹子は、例によってべットの上に腰を下ろし、ホットミルクをすすりながら話を始める。
「え一と、Ｃ１優勝はマクダネル・ググラスの工藤隼人。第２戦に続いての２連勝。工藤さん、って今年デビューしたばかりのルーキーでしょ？・・・凄いなぁ」
「確かにね」
以前から狙っていた日本人として初のＣ１のチャンピオンシップでの栄冠を工藤にさらわれた格好の翔は、面白くなさそうに頷いた。
その事に気付いてか、真樹子は話題を変える。
「・・・あ、そうそう、あんまり関係ない話なんですけど、工藤さんってね、これがなかなか絡好いいんですよね」
「ふうん」勿論、翔にとって興味の沸く話でもない。翔は生返事を返した。「・・・知っているのかい？」
「ああ、直接じゃないですよぉ。写真、見ただけなんですけど」と、真樹子は言い、悪戯っぼく笑った。「・・・星野さんのね、机の上に飾ってあった」
「ひょっとして・・・」翔は、両手でハートの形を作って訊いた。「これかな？」
「多分」
「おいおい、ガキじゃあるまいし、よくやるよな」
翔は苦笑しつつ呆れたように言ったが、真樹子は、女の子なんて、大抵、そんなもんだよ、と思った。
「ま、面食いは、昔からのあいつの病気だけどね」
「――面食い、ねぇ」
「で、２位以下は？」
翔が、話の方向を元へと戻す。真樹子は、再び書類に目を落とした。
「２位は、ロックウェルです。打倒マクダネルとして３３００ｈｐにチューンしたグリフォンにコントラ・ペラつけたムスタングを持ち込んだんですけどね。
３位はＮＡＳＡ、エディ・ブラックのムスタング。４位グラマン、５位がロッキード、６位はＬＶＴ．ＡＡＲＣは７位・・・入賞圏外ですね」
「・・・ありゃ」翔は、意外そうな顔をした。溜め息をつく。「さすがのＡＡＲＣも、今シーズンは、ファクトリーに歯が立たない、か・・・」
「――そうそう、ＡＡＲＣって言えば・・・」真樹子は思い出したかのように言った。「うちに貸してくれる標的機と、バルーン、今週中には来るって話ですよ」
「そりゃいいや」翔は微笑した。「ただ飛び回ってるだけじゃ、腕もなまっちうからな」
「練習出来るのは、もう少し先の事になりそうですけどね。契約期間がどうとか言ってたから」
「もうちょっとの辛抱か・・・」
「それから、ＡＡＲＣ、今年の沖縄１５００kmに、新しい機とパイロットを出すんだって・・・知ってました？」
「いいや」翔はびっくりしたような表情をした。「初耳だ。・・・いったい、誰を出すんだろう？エースのスティーブ以外だと、あとは・・・トニー・アレンあたりかな、使えそうなのは」
「――機体は川崎・キー６１、パイロットは・・・え、と・・・？」
「どうした？」
「何て読みます？これ・・・」
真樹子は、書類を翔に見せ、問題の箇所を指差した。――陽飛燕、と、そこにはあった。
「・・・中国人かな？」
「さぁ・・・？」真樹子は首を傾げた。「ちょっと、わかんないてすね」
「とにかく、本名だとしたら洒落にならないな――よりによって、機体が三式戦『飛燕』だものな。だとしたら、親父も趣味が悪いや・・・」