ＰＡＲＴ　４１　　祭の後で・・・

　勝った。
　勝った。優勝したんだ。と、翔は自分に言い聞かせるようにして思うが、それでも実感が湧かなかった。
　勝利の喜びより、これで終わったんだ、と言う安堵と、奇妙な脱力感が翔の中を支配していた。
　その事が、翔をクールにさせた。
　「――ウィニング・ラップをやっている余裕はない。降りるぞ」
　「はい」
　翔がこんな調子では、真樹子も合わせるしかなかった。真樹子は緊急扱いでタワーに着陸をリクエストした。
　場周飛行。
　そこで、翔は滑走路を外れた所で、無惨に焼け焦げて横たわる「飛燕」に気付いた。
　「おい、あれ『飛燕』じゃないか？」
　「本当だ・・・陽さん、大丈夫かな」
　真樹子が、コントロールに飛燕の安否を確認する。
　「・・・陽さんは無事だそうです。なんとか脱出して、歩いて戻って来た、って」
　「そうか、よかった」
　翔にとっても他人事ではなかった。キー８３のエンジンは軽いだきつきを起こしていて吹き上がりに滑らかさを欠く状態だった。もし、アプローチ中に焼き付きでもしたら飛燕の二の舞になる。
　翔は慎重にアプローチに入った。
　オーバーヒートを起こしかけているハンナも、翔に続いてアプローチに入る。
　そして、タッチダウン。
　滑走路に滑り込み、キャノピーを開けた翔の耳に、漸く観客の歓声が届いた。

　メインスタンド正面。
　翔は、表彰台の前にキー８３を停めた。
　ハンナは、翔のキー８３の右隣にハインケルを停めた。３位のビル・ジョイスは、翔とハンナのやらなかったウィニング・ラップをした為に、まだこない。
　真樹子は、ハッチを開けて身体を乗り出す。
　その時に見た翔の横顔を、真樹子は一生忘れないだろう、と思った。
　口元に微かな笑みを浮かべ、しかし、瞳には何か大切なものを失ったかのような、虚ろさと寂しさがあった――追い続けて来た夢を掴んでしまった男の表情に、真樹子は言葉もなかった。
　その真樹子の視線に吸い寄せられたかのように翔は振り返り、視線を合わせると、満足気に、そして、何か納得したように２度ばかり頷いて見せた。
　ＭＡＣのみんなが駆け寄って来る。
　プレスカメラマンのシャッター音が、まるで雨音のようだ。
　翔は、歓声と拍手に応えて手を上げた。
　漸く、優勝したんだ、と言う実感が湧き始めた。

　仮表彰式。
　表彰台の上に立つ翔は、正に、地に足がついていないような状態だった。
　何か場違いな所にいるような気がして落ち着かない。そのくせ、並んで表彰台に立っている真樹子が身体をくっつけるようにしている事で、表彰台の狭さを感じたりした。
　真樹子の横からハンナが手を伸ばして来た。握手を求める。
　「――おめでとう」
　とだけ言ったハンナの表情は涙を懸命に堪えているようだった。
　「ありがとう」
　こみ上げる想いを胸に、翔は短く答えた。
　その翔の肩を、左からビル・ジョイスが手荒く叩いた。
　「おら、チャンピオン！胸を張れ、堂々としていろ」
　優勝カップとトロフィーの授与。カメラマンのフラッシュの閃光。
　そして、大瓶のシャンパンが手渡された。
　その大きさにびっくりする翔と真樹子に、
　「よく振ってから開けろよ。落とさないようにな」
　と、ジョイスがアドバイスしてくれた。
　翔は真樹子と２人懸りで、言われた通りに瓶を振ってから栓を抜く。
　ポン、と、いい音がして栓が飛び、白金の飛沫が夕陽の中で弧を描き、虹を作った。
　吹き出すシャンパンの勢いが弱まった所で、翔はシャンパンをラッパ飲みする。
　――旨い。
　正に勝利の美酒であった。乾いた喉に、疲れた身体に、アルコールが染み通る。
　一息ついた後で、翔は真樹子にもシャンパンを勧めた。ちょっと躊躇いを見せた真樹子だったが、翔に瓶を支えて貰いながらシャンパンを口にした。
　「――ヘイ、ハンナ！」タイミングを見て、ジョイスがハンナに声をかけた。「どうやら、新チャンピオンはシャンパンの飲み方を知らないらしいゼ」
　「そぉねえ。これだから田舎者はヤになっちゃう――ちょっと教えて上げようか？」
　「そうだな、そうしよう」
　ハンナとジョイスは目配せし、同時にシャンパンの栓を抜き、両側から翔と真樹子にシャンパンシャワーを浴びせた。
　頭からシャンパンを浴びせられて翔はあっと言う間にびしょ濡れになった。
　真樹子は思わず表彰台の上から逃げ出したが、ハンナは逃げる真樹子を追いかけてシャンパンを浴びせ、翔同様にびしょ濡れにした。
「――どうだ、飛鳥、頭から味わうシャンパンの味は？」
　と、ジョイスに問われて、翔はものも言わずに手にしたシャンパンの残りをジョイスの頭に浴びせ、
　「最高だね」
　と、答えた。
　その表情が、漸く勝利者のそれになった。

　深雪は、結局８位でゴールした。
　着陸後の深雪は、正に精根尽き果て、コックピットから自力で出られない程に消耗していた。
　気力こ較べて基礎体力が伴わないだけに、いざとなると本当に体力を使い切ってしまうのが深雪の弱点と言えた。
　腕の怪我は傷口が完全に開き、出血がひどい。テントハウスで応急処置はしたものの、本格的な治療が必要な状態だった。
　その深雪に会いにエディ・ブラックが訪れた時、深雪は正直、困惑した。
　先程、命懸けのバトルを操り広げた相手の来訪である。人付き含いに関しては不器用な部類に入る深雪だけに、どう対応していいものか、悩む。
　が、エディの言葉は深雪が予想だにしなかったものだった。
　「ナイス・ファイト」
　と、エディは言った。そして、深雪の健闘を讃える。
　深雪には返す言葉がなかった。
　自由に憧れ、思うままに生きる事に憧れながらも、人を傷つける事を怖れて、自分を抑え込んで来た深雪だった。
　だが、今はそれが誤りだったと判る。
　傷つけたくなかったのは自分だった。
　自分が大切だから、自分が傷つきたくないから、言い訳の為に、自分を出し惜しんで来たのが自分だった。
　だが、自分の全てを出せば、たとえ、それが結果に結びつかなくても、温かく認めてくれる人がいる――少なくとも、ここには。
　そう、ここには自分を受け止めてくれる人達がいる。自分の全てをぶつけられる世界がある。その事が嬉しくて、深雪は涙を零した。
　「・・・深雪さん？」
　いきなり泣き出した深雪を不思議そうに見ながら、エディは戸惑い勝ちに声をかけた。
　「ありがとう」
　と、深雪は言った。
　レースをやっていてよかった、と深雪は心から思った。

　仮表彰式の後、入賞したパイロットはプレスルームにて集中記者会見を行う。
　その間に、機体の再検査が行われ、そこで問題なし、と判断された後に正式順位が確定する事になる。
　尤も、Ｃｌはレギュレーションが穏やかだから再検査と言っても大した事はなく、夏の遅い夕暮れが訪れる頃には、正式順位の決定を見る筈だ。
　その記者会見の前、ハンナ・レイチェルは他のパイロットとは別れ、ひとり医務室へ向かった。
　医務室では、飛燕が、怪我の応急手当てを受けた後、病院へ移送されるのをベッドの上て待っていた。
　いかに飛燕がタフとは言え、脚を折って燃えながら暴走する機体から、炎に追われて無我夢中で飛び出したのである。ただでは済まなかった。
　骨こそ折りはしなかったものの、全身に打撲傷を負い、普通なら立つことすら難しい程の重傷だった。
　ベッドの傍らには、陽貴子が無言で付き添っている。少し離れた壁際には下村もいた。そこにハンナは顔を出した。
　「――何よ。笑いに来たの？」
　と、飛燕は挑戦的な口調で言った。しかし、眼光にはいつもの覇気がない。
　下村は少し緊張した。又、いつかのように殴りあいを始められてはたまったものではない。
　「あなたには勝ったなんて思ってやしないわ」
　と、ハンナは言った。
　「あたしも、まだ負けたつもりはないね」
　「そうよ。あなたとはまだ決着をつけていないんだから・・・また、飛びなさいよ」
　飛燕は頷いた。
　「きっとだからね・・・約束よ」
　ハンナは右手を差し出した。握手を求める。
　その手を握りながら、飛燕は言った。
　「――今度こそ、あなたに勝ってみせるからね」
　「それは、こっちの台詞だわ」
　と、ハンナは切り返し、２人の女は顔を見合わせて笑った。

　夕暮れ時。
　翔と真樹子は再検査を終えて戻って来たキー８３の翼の上にいた。
　レースを終えた飛行場は静寂さに包まれていた。
　観客席には既に熱狂する観客の姿はなく、うるさいプレス関係者は表彰式の会場に移動している頃だろう。
　飛行場には戦い終えて沈黙するマシン違と、それを所在なげに見守るオフィシャルだけが残されていた。
　西に傾いた陽射しが２人を包み込む。熱く、長かった１日が、ゆっくりと静かに終わろうとしている。
　「――終わった、ね」
　と、真樹子は言った。
　「又、始まるさ・・・明日になればね」
　「うん・・・」
　真樹子は少し寂しげに頷いた。
　「――マキちゃん。昨日、俺の言ったコト、覚えているかい？」
　「昨日？」
　「これからどうするか、ってコト」
　真樹子は頷いた。
　もう２人では飛ばない。これからは好きなようにすればいい――と、言った翔の言葉は、まだ耳に残っている。
　「あれさ、ちょっと言葉が足りなかったと思ってね」
　「・・・」
　「――好きにしろ、と言ったけど、あれは何も勝手にしろ、と言う事じゃなくて・・・何て言うのかな、お前が望む事があって、それが俺にも納得出来る事であれば、俺は、お前の望むようにしてやりたい――そう言う事なんだ。だから、冷たいなんて思ってくれるな」
　真樹子は答える言葉もなくただ頷き、そして、翔の肩に額を当てるようにして表情を隠した――翔の温もりが、じんわりと胸に染みて、泣き出したい位だった。
　「――飛鳥さん・・・」
　「ん」
　「・・・このまま、ずうっとこうしていたいな」
　言ってしまってから、真樹子は自分が随分と大胆な発言をした事に気付いた。身体中がかっと熱くなる。
　「マキ・・・」
　「ううん、今だけ」真樹子は慌ててとりなした。「――今だけでいいから、もう少しだけ、このままで――」
　「ああ」翔は頷き、真樹子の肩に手を回した。「――表彰式なんか、少し遅れたって構うものか」
　夕陽が２人を包む。
　次第に長くなっていく２人の影が、やがてひとつになった。

　　――コンバットエアレース世界選手権Ｃ１沖縄１５００ｋｍリザルト――

　　出場：３８機　　決勝進出：２５機　　完走：１６機

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