| ＰＡＲＴ ４ 嵐 | |
訓練５日目。
今日は、雲が低い。
空は濁ったように白く、冷たく湿った空気が肌に粘り付く。低気圧が接近して来ているのだ。
「大丈夫か、天気は？――飛べるか？」
須藤が空を見上げて心配をする。
「ＶＭＣぎりぎり、って所ですかね」と、翔は平然ともとれる口調で答えた。「それより、頼みますよ、例の手配の方」
「わかってる。だがな、気をつけて行け――いいか、絶対に事故るな」
須藤は念を押すように言うと、翔の肩をひとつ、叩いた。
午前中、予定通りに４時間飛び、昼の小休止を４５分。尤も、休めるのはパイロットだけで、地上クルーは午後の飛行準備で忙しい。
天気は相変わらず、よくない。むしろ、悪くなりつつあった。
真樹子は、真琴が用意してくれた軽い食事を格納庫で食べた。真樹子も、昨日くらいから抵抗なく食事がとれるようになっていた。
「マコちゃん」と、真樹子はキャノピーを磨いている真琴に声をかけた。「飛鳥さん、何処行ったか知らない？」
「さっき、須藤さんとコントロールの方に行きましたけど」
「ふうん・・・」
真樹子は納得し切れないような顔で頷いた。――何をしているんだろう、と疑問に思う。何だか、自分だけが除け者にされたような、割り切れないものが真樹子の中に残った。
その頃。
翔は須藤と共にコントロールの気象室にいた。
「やっぱりな・・・今朝の予報以上に発達してる」
気象レーダーの映像を見ながら翔は呟いた。
レーダースクリーンに映る映像は、野島崎東方海上にある低気圧から伸びる寒冷前線上に発生している雲の塊をはっきりと捉えていた。
「――前線上にかなりの積雲が発生していて、下では雨が降っています。先程、硫黄島に向かう航空自衛隊のＣ−１からも報告がありました」と、担当のまだ若い予報官が忠告するように言った。「飛行は取り止めにした方が賢明と思いますが」
「・・・どうする？」
翔の気持ちを確認するように、須藤が訊く。
「フライト・スケジュールは橘さんに任せてある以上、その判断は僕のする事じゃない」
と、翔は幾分、声を荒立てて言った。
はっきりと口にはしないものの、天候の再確認をしない真樹子に憤りを覚えている事はその口調からありありと判る。
――こうして、すぐ意固地になるあたりがこいつの欠点だよな、と思いながら、須藤はもう１度、訊く。
「危険だって事は、判っているな？」
「判っています」
「・・・場合によってはマキちゃんと心中だぞ」
「やむを得ませんね」
「やむを得ないことがあるか」と、須藤は語気を強めて言った。「それだけは認めないぞ。出て行くのはいいが、絶対、帰って来るんだ」
「・・・努力します」
「まぁ、いいだろう」須藤は半ば諦めたようになって頷いた。「――それにしても、お前、よく、予報よりも低気圧が発達してるって事に気付いたな」
「そりゃあ、これでも空飛んで飯食ってるんですから、地面にへばりついてる予報官よりも、空の事は判りますよ」と、翔は言い放った。が。「・・・なんてね。実は高度計をチェックしてたんです。気圧高度計と電波高度計、この２つを見比べて行くと気圧の変化が判りますからね」
「成る程」
確かに、翔は一流のパイロットだよな、と須藤は改めて思う。
「・・・あ、そうだ」と、急に思い出したような感じで翔は言った。「例の話、どうなりました？」
「話はついた」と、須藤は頷いて、ひとつ溜め息をついた。それだけで、どうやら大変な話をして来たらしい事は想像がつく。「・・・いいか、よく聞け。まず、トレーサーには『ミッドウェイ』のＥ−２Ｃが上がってくれる。それと、ミスコースした時の誘導機として、海自のＰ−３Ｃを２機待機。あと、万が一に備えて、三宅島にＵＳ−１をスタンバらせている」
「凄いですね」
と、翔は、感心を通り越し、呆れたかのような声で言った。
「まぁ、な。この件に関しては、自衛隊も協力してくれるので助かるよ・・・ま、米軍まで手貸してくれるとは思わなかったけどな」と、須藤は言い、それからちょっとばかり非難するような口振りになる。「そもそもだなぁ、こんな天気に飛ぼうとする馬鹿がいるから・・・」
「決断するのは僕じゃない」
「・・・黙って従っていたら同じだ」須藤はそこまで言って、ある事に気付いた。「まあ、その点についちゃ、俺も変わらないか」
「――協力には感謝してますよ」翔は真顔になって言った。「とにかく、余計な手間はかけさせないよう、空では最善を尽くしますよ」
空が重い。
今にも泣き出しそうな感じの空だ。
その空の下、キー８３は南へと、飛ぶ。
海上に出てから、すぐに高度をとって雲の上に出る。
高度１１０００ft。
予想していたより雲の層は薄かった。意外にも感じられる青空の下、雲海が広がる。雲の海に浮かぶ島のように、所々に積雲が盛り上がっている。
乱気流を避ける為に、積雲を回避しつつ尚も南へ飛ぶ。雲を避け、右に左に変針を繰り返す為、航法を担当する真樹子は忙しい。
暫く、そんな飛行が続いた。
やがて、正面に不気味な感じの黒く長い雲が見え始めた。雲海にそびえ立つ積雲の峰――それは正に雲の山脈だった。
（寒冷前線面だな）
と、翔はすぐに気付いた。
雲は部分的に積乱雲にまで発達していた。むくむくと盛り上がったその様子は、一瞬、それが細かな水滴の集まりに過ぎない事を忘れさせる程の迫力があった。まるで、巨人が両手を広げて行く手を阻んでいるような感じだ。
時折、雷光が走り、雲をその内側から照らし出す。雲の中は大荒れになっているに違いない。
積乱雲の中に突っ込む事は危険だった。もし、うかつに中に入ろうものなら、飛行機など木の葉のように翻弄されて海面に叩きつけられるのがオチだ。
（さぁ、どうする？）
――前線にこれだけの積乱雲が発達している事に気付いているとしたら、引き返さざるを得まい・・・翔はそう思ったが、それでも真樹子の指示を待った。
が、真樹子は引き返そうとはしなかった。左右に変針を繰り返しながら高度を上げ、雲の切れ目から先に進もうとする。
（前線だって事に気付いていないな）
翔は、内心、舌打ちしたが、ここはとにかく真樹子の指示通りにする。
高度１６０００ft。
真樹子は遂に雲中突破を決意した。
「１１時の方向・・・あの白い雲へ」
「わかった――行くぞっ」
雲の中に飛び込む――回り全てが乳白色に変わり、視界がとれない。乱気流が機体を揺する――と、一瞬、雲が切れて視界が開け・・・目前に、激しく渦巻く積乱雲が壁のようにそそり立っていた。
「！」
針路を変える間もなく、キー８３は積乱雲の中に飛び込んでしまった。
雨粒がキャノピーを叩き、弾ける。先程のなど比較にならない乱気流が襲いかかって来る。大自然の凶暴なエネルギーの前では５６００馬力を誇るキー８３も、風に踊る一枚の木の葉同然だった。
薄暗い雲の中、翻弄される機体を雷光が照らす。稲妻が、まるで命あるもののように走り抜けて行く。
翔は、必死になって高度と姿勢を保とうとするが、その努力を嘲笑うかのように、凶暴な力が機を翻弄する。キー８３はあっと言う間に２０００ftも吹き上げられ、又、引き下ろされた。８Ｇの機動にも耐え得る強度を持つキー８３の機体も、きしみ、悲鳴を上げる。
（駄目だ。機体が保たない――分解するっ！）
とにかく、雲から出なければ――降下して雲の下へ出よう、と翔は咄嗟に判断した。
下は海。高度計を見誤りさえしなければ何とかなる・・・と、翔は考え、激しい上昇気流に逆らってキー８３を急降下させた。
その時。
目前で何かが弾けた。閃光と衝撃が走って、視界が真っ白になる。翔と真樹子はシートに叩きつけられ、瞬間、意識を失う。
翔が我に返った時には、目の前に海面が迫っていた。死神に心臓を掴まれたかのような恐怖と驚愕の中で、翔は、無我夢中でスティックを引いた。全力で海面に向かって降下する機体を引き起こす。
海面すれすれで、なんとか姿勢を回復し、水平飛行。
翔は溜めていた息を吐いた。膝頭が恐怖の余韻にまだ震えている。冷や汗が体中を気持ち悪く濡らしている事に漸く気付く。
（・・・落雷したんだ）
落ち着きを取り戻した所で、翔は漸く何が起きたのかを理解した。
「――後席！そっちは大丈夫か？」
機体チェックをしながら、翔は呼びかけた。――が、返事がない。
「おい、どうした？」
「――もう、嫌・・・」
「何だって？」
「もう・・・もう、嫌っ！――降ろして下さい！降ろしてっ！」
（限界、か・・・）
取り乱す真樹子の声をインターコムから聞きながら、翔はそう考えていた。――仕方ないかな、と、同情気味に思わなくもない。事実、翔ですら、先程の積乱雲の中では、危うく、チビりそうになる程の恐怖を感じていたのだ。
とにかく、こんなザマでは、これ以上声を聞いていても耳障りなだけだ。翔はインターコムを切った。
――恐らく、真樹子は飛行場に戻るまで立ち直りはしないだろう。となれば、航法含め、全部自分ひとりでやるしかない。翔はそう判断した。
落雷による被害は馬鹿にならない。
まず、ＥＦＩＳの航法計器は全滅。ＡＤＦは勿論、コンパスまで使用不可。通信機は雑音しか入らず、電波高度計もやられた。
（要するに、アンテナ類は全滅って事か）
ＥＦＩＳなんてシステムを採用するから――と、翔は、八つ当たり気味に憤慨した――壊れるとなったらまとめて壊れるから、おかげで落雷の影響は無かった筈のコンパスまで使えなくなった・・・
と、翔はそこまで考え、ある事に気付いてぞっとした。
（それにしても、ＦＢＷシステムが無事で命拾いした。もし、あれをやられていたら海に突っ込んでいた）
改めてほっとする。
翔は、キャノピーのフレームに取り付けておいた予備の磁気コンパスから方角を読み取った。高度を下げ、波頭を観察して風力と風向を読み取り、針路を修正する。
――こんな荒っぽい航法じゃ何処へ行くか知れたものではないが、ま、北に飛びさえすれば何とかなる筈だ。燃料には余裕があるし、余りに大きくコースを外れたら、海上自衛隊のＰ−３Ｃが誘導してくれる手筈になっている。
ふと、微かな異常を翔は感じた。
（何だ？）
ＥＣＡＭをチェック・・・１番エンジンの筒温がやや高く、油圧が低下している。
変だな、と思いながら左翼の１番エンジンを見た翔は、ぎょっとした。
油を吹いている。
――タービン・トラブル？と考えた翔だが、すぐに、違うな、と思い直した。
（エンジンはちゃんと回っている――とすると、それ以外の油圧系がやられたかな。どっかのシールか、配管がいかれた位で済んでくれればいいけど、本体がやられていると厄介な事になる）
しかし、原因はともかく、エンジンを焼き付かせる訳にはいかない。
「ちっ、片肺かよっ・・・！」
翔は１番エンジンを止めた。プロペラピッチをフェザリング位置にして回転を止める。
重苦しい空の下、相変わらず雨がキャノピーを叩く。眼下では鈍い金属光沢を放つ海がうねり、波濤が白い牙を剥く。
翔は暗澹たる心境になった。
片肺飛行では、このまま水平飛行を続けるのが精一杯で、雲の上に出る事は、まず無理だろう。つまり、航法計器は勿論、通信機も使えず、片肺でもたもた飛んでいる機体を操って洋上数百kmを、雲の下、雨に打たれながら帰らなければならない訳だ。どんなパイロットだって気が重くなる。
（――俺に出来るのか？・・・そんな事が・・・）
翔の心の中に不安が忍び込んで来る。スティックを握る手に、じっとりと冷たい汗が浮かぶ。プレッシャーに胸が重く、呼吸が苦しくなってくる。
翔は、頭を振って弱気を振り切ろうとする。深呼吸を、２度、３度。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
（やってみせるさ・・・やるしかないなら！）
怒りにも似た感情の高ぶりの中で、翔はそう決意した。
その激しい思いだけが、翔をこの困難な状況に、そして孤独に立ち向かわせていた。
厚木飛行場は、雨の中、闇に包まれようとしていた。
赤黒い、気持ちの悪い色の雲が全天を覆い、遠雷が空を僅かに震わせる。
その空の下、須藤は雨に打たれ、傘もささずに南の空を見上げて立ち尽くしている。
――キー８３が離陸してから４時間が経過。
帰投予定時刻はとうに過ぎている。何か、トラブルがあった事は明確だった。とにかく、
今となっては翔と真樹子の二人が無事である事を祈るばかりだ。
（・・・Ｅ−２Ｃに上がって貰ったのは正解だったな）
と、須藤は思う。
Ｅ−２Ｃがレーダーでキー８３の機位を掴んでくれているから、まだこうしていられるのだ。そうでもなければ、心配でいてもたってもいられない所だろう。
そろそろ戻って来てもいい頃だが・・・と、須藤が訝り始めた時。
微かなエンジン音が、須藤の耳を震わせた。――紛う事無き大馬力レシプロエンジンの排気音だ。
安堵して、須藤は思わず言葉にならない声を吐き出した。
エンジン音を聞きつけて他の地上クルーもバラバラとエプロンに出て来る。
南の空に、チカッと小さな光が見えた。
「来たっ！」
鈍い銀色の雨のカーテンをかき分けて、着陸灯を輝かせたキー８３が、垂れ込めた雲の下に、その姿を現した。
片方のエンジンを止めたキー８３は、よろめきながらもアプローチラインをとり、降下に入る。
「片肺だぜ・・・大丈夫かな」
クルーが心配して見守る中、キー８３は、難なく濡れた滑走路に滑り込んだ。ほっとしたような溜め息が漏れる。何人かのクルーが誘導の為に駆け出して行く。
キー８３は、左翼を心持ち引きずるようにして、ゆっくりとエプロンへと戻って来た。
エプロンの定位置に駐機し、エンジンを止める。
翔は、キャノピーを開け、ヘルメットをとると、目を閉じ、顔を仰向かせて雨に打たれるに任せた。
翔の心は重く沈み・・・そしてやり場のない感情に苛立っていた。
（俺の、判断ミスだ）
翔の中の冷静な部分では、そう思い、反省をしていた。
――厳しくやるのと、危険を冒すのは全然違う。それは承知していた筈だ。それなのに積乱雲に突っ込むと言う危険な真似をしてしまったのは、完全に自分の失敗だったとしか言い様がない――が、しかし。
しかし、今の翔は、その事を素直に認められなかった。それを認めるには感情が高ぶり過ぎていた。
「――おい、遅かったな」
声に目を開けると、須藤の顔が目前にあった。
「すみません・・・」雨の滴が目に入り、翔は拳で目を擦った。「・・・心配、かけました」
「なに、お前の事だから、何とかするとは思っていたさ」
「・・・信頼、してくれてたんですか？」
「当たり前だ」須藤は静かに言った。「でなきゃ、大事な機体を任せやしない――それに、お前はうちのエースだからな」
「・・・」
翔には返す言葉がなかった。無言のままで機を降りる。
真樹子がまだ降りてこない。
――まだ立ち直っていないのかよ。と翔は思った。
冷静になれば理不尽である事は判るのだが、急に、怒りがこみ上げて来る。冷静にならねば、とは自分自身で判っているのだが、翔の悪い癖で、こうなると自制が効かない。
翔は、後席にとりついた真琴を押し退けて、後席ハッチを開けた。
失禁でもしたのか、微かに異臭のする後席コックピットから、未だショックから立ち直り切れずに、蒼白になって震えている真樹子をかなり乱暴に引き擦り出す。
翔は、真樹子からむしり取るようにしてヘルメットをとると、襟首を掴んで頬を平手で叩いた。
真樹子の表情に生気が戻った。
「――立て」
念を押すように翔は言った。真樹子の襟首から手を離す。
真樹子は悄然とした感じで翔の前に立ち尽くした。まだ、身体が小刻みに震えているのが痛々しい。
その真樹子の頬に翔は痛烈な平手打ちを放った。
誰も止める隙がなかった。あっと思った時には真樹子がエプロンに転がっていた。
真琴が、慌てて真樹子に駆け寄り、非難する目つきで翔を睨みつける。
その真琴の視線を無視し、翔は冷たく言い放った。
「予定通り、明朝までに飛行準備を整えろ。それが出来なきゃ、２度と俺の後ろに乗るな」
翔はそこまで一気に言って、呼吸を整えた。
真樹子は打たれた頬を押さえてうずくまっている。うずくまり、身体を丸めた真樹子は、本当に小さく見えた。
「わかったかっ？」
「・・・はい」
怒鳴られて、真樹子は辛うじて声は絞り出した。
「わかったのか、と聞いているんだよ！」翔は怒鳴った。「返事はっ？」
「――はい！」
真樹子も、半ば泣き声になりながらも怒鳴り返した。
翔はきびすを返した。その背中を睨みつけるようにしていた真樹子の目から、やがて、涙が溢れた。
「まだ飛ぶ気なんですかね？」
メカニック達も、さすがに呆れていた、特に電装品をチェックした中島などは、殆ど途方に暮れたような口調で須藤に愚痴をこぼしたものだ。
「――大体、帰って来れただけでも奇跡ですよ。本当に。電装品なんか、殆どオシャカ。ＦＢＷが無事だったのが不思議な位ですよ。これで、明日も飛ぶなんてどうしろってんですか、全く・・・」
「ま・・・そう言うなよ」
「パイロットが諦めていない以上、やるだけはやりますけどね」中島は諦めたかのように言ったが、最後に脅しめいた一言を付け加えるのを忘れなかった。「――ただ、明日、飛べるかどうか、僕は保証しませんよ」
格納庫の外。
降り続く雨に濡れるのも構わずに、真琴は、翔を待っていた。
真琴は、翔に腹を立てていた。空で何があったのか、勿論、真琴は知らない。が、あれじゃ真樹子があまりに可哀想だ、と真琴は思った。
暫く待ち、真琴は着替えを終えてロッカールームから出て来た翔を捕まえて声をかけた。
「――飛鳥さん」
「ん？」
「ちょっと、ひどいんじゃないんですか。なにも、あそこまでやらなくたっていいでしょう？」
真琴は真摯な視線で翔をしっかりと見据え、一気に言った。
「放っといてくれ」
翔は投げ遣りな口調で答えた。
「飛鳥さん・・・！」
畳みかけるようにして言葉を続けようとして真琴だったが、翔の表情が急に険しくなったのに気付き、ぎくりとして次の言葉を呑み込んだ。
「俺だって、好きでやってんじゃねえんだ。訳も判らない癖につべこべぬかすな！」
翔は凄い剣幕で怒鳴った。声の届く範囲にいたメカニックがびっくりしたような表情で振り返る。
怒鳴られて所在無さげに立ち尽くす真琴の姿に、翔は改めて気付いたかのような表情を見せた。
「悪いな・・・」翔は、気弱ともとれる笑いを浮かべながら、小さく呟くように言った。「・・・俺も、辛いんだ。それだけは判ってくれ」
真琴は無言のままで頷いた。
「――それより、びしょ濡れじゃないか」と、翔は言い、呆れたように付け加えた。「・・・ったく、他人の心配するより、自分を大事にしな。――そのままじゃ風邪ひくぞ、早く着替えろよ」
翔は、自分の傘を真琴に押しつけるようにして渡すと、一層強く降り始めた雨の中へひとり歩き出して行った。
その日の夜。
真樹子は須藤の部屋のドアを叩いた。頬にはまだ翔の手形が残り、泣き腫らした目は睡眠不足のせいもあって真っ赤だ。
「なんだ？」
と、須藤は用件を尋ねた。
「・・・」
真樹子は無言のまま須藤を見つめ、涙をぽろぽろこぼした。
「――なんで」真樹子はしやくり上げながら切れ切れに言葉を吐き出した。「なんで
こんな事やらなきやいけないんてすか・・・教えてください」
おやおや、と須藤は思った。気丈な真樹子がここまで涙脆くなっているとは思ってもいなかったのだ。大分、追い詰められているんだな、とは思うが、ここで同情してはいられない。
「こんな事、って言っても、お前だけに特にきつい事をやらせてはいない害だがな。現
に、飛鳥君も同じ事をやってる訳だし・・・」
「・・・でも、だって、飛烏さんは・・・」
珍しくぐずる真樹子に、須藤は喝を入れる気になった。
「おい。お前な、自分が何だと思っているんだよ？ひとが甘い顔見せてればガキみたいにピーピー泣きやがって――泣き言を並べる前に、自分が何れ程の事をやったのか、思い起こしてみろ」
一喝されて、真樹子ほびっくりしたような表情になった。同時に泣き止んでいる。
「見ろ」
須藤は真樹子に分厚い書類の束を突き付けた。
真樹子は言われるままに、手にした書類に目を通した。
「この数日で飛鳥君が作製した、フライトプランの案と、レポートだ」
須藤に言われるまでも無く、その内容を把握した真樹子は表情を強張らせた。
その内容と質は、真樹子のそれを遥かに凌いでいた。これだけのものを、与えられた同じ時間の中で作り上げたとは、真樹子にはとても信じられなかった。
「――それにな、飛鳥君には口止めされているんだが、最初、お前がＧで飯食えなくなっていた時あったろ？あの時は、あいつも飯食わなかったんだぞ。それ以外でもな、お前が味わったのと同じ苦労を、あいつは進んでしてるんだ――それでも、お前、自分だけが酷い目に遭ってる、なんて思うか？」
「・・・」
「それに――大体、お前、今日の事故の原因を分かっているのか？」
「あ・・・あの、あれは、コース上の雷雲に突っ込んじゃって・・・」
「馬鹿」須藤は真樹子の答えを一蹴した。「あれは前線だよ。寒冷前線上に発達した積乱雲に、もろに突っ込んじまったのさ――飛鳥君からは、事故報告も既に貰っている」
「だって、でも・・・」と、真樹子は弱々しく反論した。「予報では、あの時間では低気圧はもっと西南の方にあって・・・」
「いつの予報だ？」
「何故、昼に再確認しない？――飛鳥君は午前中の飛行で、気圧高度計と電波高度計の差を読んで、予報よりも実際の動きが早いことを知ってたぞ」
「え・・・！」
本当に、凄いんだ・・・と、真樹子は素直に感嘆した．
「凄いだろ？」
と、間われて、真樹子は、思わず頷いた。
そう、確かに飛鳥さんは凄い。あたしなんか比べものになんかなりゃしない・・・真樹子は改めてその事を思い知らされた。
（それじゃ、あたしは・・・？）
あたしなんかが何もしなくたって、飛鳥さんだけで充分、やれる。
大体、工アレースなんてのを２人掛かりでやろうとする方が異常なんだから・・・だとしたら、あたしは何をしたらいい？――そんな疑間が真樹子の頭の中で大きくなりつつあった。
そんな真樹子の心の中を知ってか知らずか、須藤は徐に話題を変えた。
「だけどな、その飛島君が、自制を失って自減したりするんだよ。レース、ってやつでは――だから、お前の存在価値があるんだ・・・あいつにブレーキをかけ、暴走を防ぐ為にな。とりあえず、お前に任せる役割はそれだけだ。それ以上を期待しちやあいない。あとは、足手まといにならなきゃそれでいい」
「・・・」
「――なんだ、それだけか、なんて思ってくれるなよ。ブレーキってのはな、確実で信頼出来なきゃならないんだ。難しい仕事だと思う・・・だがな、お前があいつにブレーキをかける事が出来るなら、あいつは、目一杯、飛ばせる。そうなった時のあいつは速い――多分、誰よりもな。
だから、お前は、あいつを信じて任せておけばいい。
わかるか？お前の大切な役目のひとつはな、あいつを信じてやる事なんだ――今日、あいつがあんなに怒ったのほ、お前がコ・パイとしてやるべき事をやらなかったからじゃない。あいつを信じてやらなかったからだ――お前は、あいつを裏切ったんだよ。怒るのも、まあ、無理はないわな」
真樹子は俯いた。須藤に泣き付いた自分が情け無く、翔を信じられなかった自分が恥ずかしかった。
「・・・わかったな。いいな、もう２度と泣き言は言うなよ。今度、泣き言をロにしたら、問答無用で、コ・パイから下ろす。覚悟しておけ」
「――はい」
と、答えた真樹子の表情は、どこか振り切れたような、晴れ晴れとしたものに変わっていた。
「――間題は・・・明日だな」
と、親は１人、呟いてみた――明日になれば、この訓練の結論が見える筈だ。
（ま、雷に打たれたのは、計算外だったがな……）
真樹子が、変になっちまったのもそのせいだろう・・・とは翔も思っていた。
あの落雷で、後席の計器は殆どが死んでしまったらしい。乱気流に揉まれ、落雷のショック、その上で、あの棺桶のような後席に、状況の判らないままで閉じ込められたのだから、変になるのも当然かもしれなかった。
（俺だって、そんな目に遭わされたら、平気でいられるかどうか・・・）
翔ですらそう思う。
でも、これで立ち直れないようなら、俺のコ・パイとしちゃあ失格だな、と翔は思った。・・・ちょっと、残念だけどな、とも思った。
（あいつはあいつなりに、一生懸命やったからな・・・）
実力の差は比較にならない、と言う事は真樹子も承知しているだろう。それでも真樹子は、翔のコ・パイとしての務めを果たそうと懸命に働いた。
何はともあれ、その事だけでも評価はしなくてはならない・・・
夜明けが、もう近い。
雨音が静かになって来ている。朝までに雨は上がるな、と翔は思った。
そろそろ、寝たいんだがな・・・と翔が思い始めた頃、真樹子がレポートと明日のフライトプランを持って来た。
――今日のレポートは密度が高い。一見して翔はそう感じた。
これなら、まあＯＫ、とは思う。ただ、このフォーマットは頂けない。自分のにそっくりだ。翔は苦芙した。
（須藤さん、カンニングさせたな）
レポートに目を通し、フライトプランをチェックする翔の横顔に真樹子はじっと見入っていた。
――翔の顔にも疲労の影が色濃く浮かんでいた。真樹子はその事に初めて気がついたような気がした。
（飛鳥さんだって、同じように辛いんだ）
そう思った途端に、ごく自然に言葉が口を衝いていた。
「ごめんなさい・・・あたし――」
「いいよ、気にするな」翔は、感情のままに言葉を吐こうとする真樹子を止めた。「気にするなって。もう、済んだ事だからさ」
「でも・・・」
と言いかけた真樹子の前に翔は立った。真樹子の頬にそっと手を伸ばす。
「それより、大丈夫だろうな？――痣なんかになってないよな」
翔は真樹子の顎に手をかけ、顔を仰向かせた。真樹子の頬にまだ残る手形を心配そうに見る。
真樹子の心臓が跳ね上がった。殆ど反射的に体を引く。
「あ、いや・・・大丈夫だから」
真樹子はうわずり勝ちになる声を努めて抑えながら応えた。その頃になって、体を早く引き過ぎた事を後悔する。――折角、構って貰えたのに・・・ちょっと損したかな、と思いもした。
「よかった」翔はほっとしたように笑った。「女の子の顔に傷でもつけちゃ大事だしね――ごめん、な」
「・・・いいえ」
「――こいつは合格だ」
と、翔はレポートを示した。真樹子の顔が、ぱっと輝く。
「フライトプランは返しておく――明日・・・あ、いや、もう今日か・・・まだ飛ばなきゃならないから、もう寝な」と、翔は言い、最後に一言、付け加えた。「――おやすみ」
「おやすみなさい」
真樹子は微笑しつつ答えた。
――なんとなく、今夜はいい夢が見られるような気がした。
夜が明けた。
漸く、と言う感じの訓練最終日である。
翔はいつものように軽い朝食を摂り、コーヒーで頭をはっきりさせると、連絡用の自転車で格納庫へ向かった。装備は格納庫内のロッカーに置きっ放しにしてあるから、荷物は多くない。
真樹子の姿が見えないのが気になったが、家政婦の中崎さんから、一足先に格納庫へ向かったと間いて安心した。疲れ切っている筈なのに、よくやる、と思う。
よくやる、と言えばメカニックの方は昨夜も徹夜だったらしい。いくら日中休めるからとは言え、よく続くものだと感心せずにはいられない。
雨上がりの朝の空気は澄んでいて、うまい。頬を撫でる風の感触を楽しみながら翔は自転車を走らせる。
格納庫の傍らに自転車を停めた途端に、元気な声が飛び込んで来る。
「おはようございます」
真樹子だ。何日か振りの明るい笑顔を翔に向ける。――いかにも元気一杯、と言う感じの真樹子だが、その実、気力だけで保たせている事が、翔には痛い程判る。
（この意地っ張りめ・・・！）
翔は、真樹子に対する見方を変えなければ、と感していた――全く、大した女だよ・・・と思う。少なくとも、いい所のお嬢さん、と言う見方だけは払拭せねばならない。真樹子の気力、それは充分に評価するに値した。
確かに、真樹子の腕前は一流ではない。しかし、翔は、技術より気力を重視する性分だった。真樹子の気概は、その腕前をカバーして余りある、と翔は判断した。
真樹子に挨拶を返した翔は、続けて訊いた。
「どうだい、具合は・・・？」
「あんまりよくないみたいですね」
翔は頷いた。――ま、大体雰囲気でそうと知れるけどね、と内心、呟く。
メカニック達は須藤を始め、翔に気付いても、ちょいと顔を上げで挨拶するだけで、作業の手を止めようとはしない。それだけでも事態がよくない事が判る。
誰の顔にも疲れと焦りが濃く浮かんでいた。昨日、あんな状態だった機体を、今日、予定通りに飛ばそうと、懸命に取り組んでくれていたに違い無かった。
――よく、やってくれる・・・と、翔は胸が熱くなるのを感じた。
結論が出たのは、それから３０分もたった後の事だった。
チェックリストに目を通して、須藤は渋い顔をした。チェックリストを翔に渡す。内容を確忍し、翔は感心したような表情を見せた。
「一晩でこれだけやったんなら、上出来ですよ」
と、翔。
「だが、この状態じゃ飛行許可を出す訳にはいかんね」
須藤が苦々しげに言う。
「――だとさ」
翔は振り返って、真樹子に言った。
にっ、と歯を見せて笑う。真樹子も、ほっとしたような微笑を見せた。
「中島君」と、翔は呼びかけた。「――俺の勝ちだね。先にダウンしたのはキー８３の方だったな」
「・・・自分で壊しておいて、その言い方はないでしょう」中島は疲れた顔に苦笑を浮かべた。「――ありゃ、でも・・・」
中島が指差す方向に翔は視線を走らせた。
真樹子が格納庫の床に坐り込んで顔を伏せている。動かない。
翔は、慌てて真樹子の傍に駆け寄り、様子を窺う。
「橘さん・・・！」
騒然としかけたメカニック達を、翔は抑えた。
「――静かに」翔は、人差し指を唇に当てた。「・・・熟睡してるだけだ」
翔の言葉に、安堵の溜息が幾つか漏れた。
「よく眠ってるし・・・起こすにゃ忍びないやね」そう呟いて、翔は真樹子の身休を、そっと抱き上げた。小柄な真樹子は、翔の双腕にとって大した負担にはならない。「辻さん、ちょっと手伝ってくれるかな？」
「あ、はい」
翔は真樹子を抱え上げたまま、連絡車の停めてある方へと向かった。真琴は、その後を追いながら、おずおずと口を開いた。
「あの、橘さんは・・・？」
「合格、だよ。こいつは」半ば自分に言い聞かせるような口調で翔は言った。「ちょいと気を抜けば眠り込んじまう位に疲れていたくせに、笑って見せやがって・・・この意地っ張りが・・・」
と、言いながら真樹子の寝顔を見下ろす翔の顔は、何時にない程優しく、そして、嬉しそうだった。
目が覚めた。
久し振りだな、目覚まし時計の世話にならずに起きられるなんて、と真樹子は起き抜けの霞がかかった頭の中で、ぼんやりと思う。
ベットの中で寝返りをうつ。寝過ぎたせいか、体の節々がきしむ。それも久し振りだなと思う。気分は・・・悪くない。が。
（あれ・・・？）
なんとなく違和感を覚えた――何故、あたし寝てんだろ、と言う疑問。
真樹子は漸く我に返った。枕元の時計を引っ掴み、文字盤を覗き込む。
「４時半――!?」
窓からカーテン越しに差し込む陽射しが、室内を橙色に染めていた。
（ええと、格納庫で、今日は飛べないって聞いたの迄は、覚えているんだけど・・・）
それから後の記憶が、全然ない。
あそこて寝ちゃったんだとすると――迷惑かけちゃったかなあ、と思う。ま、後で真琴に訊いてみよう、と真樹子は考えた。
とりあえず、起き上がって着替えた。部屋を出る。
「おや？」
食欲をそそる匂いが真樹子の鼻を擽った。真樹子は改めて空腹を意識し、その匂いに釣られるようにしてキッチンヘと足を向けた。
キッチンでは翔が似合わぬエプロンを着けてレンジに向かっていた。
「あ、起きたか。そろそろ起こしに行こうと思ってたんだ。丁度よかった」と、真樹子に気付いた翔は、顔だけをこちらに向けて言った。「――すぐに出来るから。坐って待っていてくれ」
「あ、手伝いますよ――何か・・・」
「いいから、坐ってろ、って」
と、言われて真樹子は椅子に腰を下ろした。
――飛鳥さんの台所仕事なんか、言っちゃ悪いけど、手際が悪くて見ちゃいられないんだけどなぁ、と思いながら、翔の後ろ姿を見守る。
やがて、真樹子の前に料理が並べられた。
まずは、大蒜と肉の香気を濃厚に漂わせている分厚いサーロインステーキ。付け合わせにフライドボテトをどっさり。それとかりかりに焼き上げたガーリックトースト。最後に大きなマグカップになみなみと注がれた沸かしたてのコーヒー。
飾り気は無いものの、これでもか、と言わんばかりの迫力のあるメニューだ。
――いかにも飛鳥さんらしい献立ね一、と、半ば呆れながら真樹子は思い、食卓を見詰めた――と、絶妙のタイミングで真樹子の腹が鳴った。
真樹子は真っ赤になった。
「いいよ、暖かいうちに食べなよ」
翔は、笑いながら言った。
「じゃ、いただきま一す」
真樹子はフォークをとった。
翔は、食事をする真樹子を目を細めて見ていたが、暫くしてから感想を訊く。
「どう？」
「うん・・・美味しい」
言葉を出すのももどかしい、と言う感じの真樹子も、こればかりは目一杯の笑顔をつけて答えた。
「そうか、よかった」翔は満足気に額いた。「沢山食べて、充分に休んで、早く元気になれよ」
「もう、元気ですよぉ」
「そうか」翔は、真樹子の答えに微笑しつつ頷いた。「――そしたら、また一緒に飛ぼうや」
「はい！」
一緒に飛ぼう・・・然り気ない翔の一言だったが、真樹子は胸の奥から込み上げてくるものを抑えきれなかった。
――飛鳥さんが、あたしをコ・パイとして認めてくれた――その事が、堪らなく嬉しかった。思わず零れてしまった涙を、翔に悟られないように拭う。
が、その涙に翔は気付いた。自分の分をテーブルに並べる手を休めて訊く。
「・・・どうした？」
「あ、いえ」真樹子は少しうろたえ、戯けて胡麻化した。「・・・お腹、ペこぺこだったから、食べたら、なんだかほっとしちゃって・・・」
「何だ」気の抜けたように翔は言い、それから話題を変えた。「――それにしてもさ、肉の高い所だね、日本ってのは。えらく高いもんについちまったよ」
真樹子ほ苦笑した。――アメリカ流の感覚で日本で、肉なんか買物されちゃかなわないな、と思う。
真樹子は、翔がなんでこんな事をしたのか、自分なりに理解していた．
（あたしに無理ざせた、と思って、その埋め合わせとしてここまでやってくれたんだ。飛鳥さんだって、休みたい筈なのに・・・）
真樹子は密かに感動を覚えていた。
――何て、大きさを感じさせる人なんだろう。まるで、澄み切った青空のような大きさと広がり。素っ気ないんだけど優しく、何よりも包み込んでくれそうな感じを、真樹子は翔に感じていた。
そんな人に認められた事が、真樹子には嬉しく、そして、不安でもあった。
が。
（この人なら、ついて行ける）
と、真樹子は確信した――ひょっとしたら、足手纏いにならないようにするだけで精一杯かもしれない。でも、もしこんな人の力になれたなら・・・
（もう、最高！・・・なんだけどね）
真樹子は溜め息をひとつ、ついた。
その溜め息が、少しばかり切ない・・・