ＰＡＲＴ ３７ 復活
７周目、５回目のコンバット・エントリーを終えた時点で、翔は、遂に１２位のスティーブ・バージの背中に手の届く所まで来ていた。
その差、約６秒。距離にして約１ｋｍ。
「――どうだ？」
ＭＡＣのテントハウス。状況を尋ねる須藤に答える立川の声は何故か震えていた。
「順位は、現在１３位。トップのハンナ・レイチェルとの差は、およそ３分です」
「じりじりと追い上げてるけど・・・まだまだ上は遠いな」
「いいえ」と、きっぱりと言って立川は顔を上げた。「トップのハンナ・レイチェル以下、殆ど全機、まだコンバットノルマを４ステージしか消化していません。うちは、既に５ステージを終えています。コンバットによるタイムロスは大体、３分以上ありますから・・・」
みなまで言う必要はなかった。状況を理解して、須藤は心地好いショックを受けた。
「――おい、まさか・・・追いつくのか!?」
「追いつきます」
泣き出しそうな声で立川は言った。
その言葉に、テントハウス内は、瞬間、水を打ったかのように静まり返った。
「・・・そうか」
呟くような声で言って、須藤は茫然と立ち尽くした。
（勝てるかもしれない――この勢いなら！）
勿論、最初から勝つつもりでやって来た須藤だった。その為の苦労が報われて、須藤は感無量だった。
「――社長」
と言うのが精一杯の須藤だった。それ以上は言葉にならなかった。
「わかっている」橘は頷いた。「――勝負は最後の最後まで判らないが、命を懸けて、ここまで来た彼等を止める事など私には出来ない。悔いの残らぬよう、存分に飛ばせてやりたまえ」
「はい」目頭が熱くなるのを覚えながら、須藤は頭を下げた。「・・・ありがとうございます」
――遂に、ここまで来た。
漸く、トップグループに手の届く所に辿り着いて、翔はこみ上げてくる熱いものを抑え切れずにいた。
（マキ、ありがとう）
何度、思い返したかしれない想いを再び胸の中で繰り返す翔だった。――真樹子が命懸けで確保してくれた、本当に貴重過ぎるポジションだった。それを無駄にする訳には行かなかった。
（勝負は、これからだ。見てろよ、マキ。俺のレースを・・・！）
翔は闘志を燃やし、スティーブ・バージヘの追撃を開始する。
７周目の東Ｔ．Ｓ、順位は次のようになっている．
トップは、ハンナ・レイチェル。
それから３秒差で２位にビル・ジョイス。１６秒遅れでエディ・ブラックが３位につける。
その後、トップから約３０秒後方、ジム・シンプソン、アラン・クリスタンと深雪の３人が４位グループを形成する。
尤も、深雪は４位グループとは言え、そのスピードはかなり遅く、シンプソンとクリスタンに置いていかれて６位に落ちるのははっきりしていた。
その４位グループの更に３０秒後方、既にハンナから１分近く遅れてはいるが、工藤隼人、そして飛燕と続く。
Ｃ．Ｓ終了直後は飛燕の方が前だったのだが、飛燕は工藤に迫られると、名護のコーナーの前であっさりと先を譲った。いつもなら、考えられない事である。
変だな、とは工藤も思った。
トップから落ちてがっくり来たか、と、工藤は思った。飛燕が、コックピットの猛暑に体力を消耗させている事を知らない工藤とすれば、そう思うのも無理はない。
（よーし、レースはまだこれからって事を教えてやるか）
「――ついて来れるならついて来なよ。俺のフライトを見せてやるぜ」
工藤は背後の飛燕を意識しつつ、飛び方を変えた。
ブロックラインなし、小細工なし。ベストラインをとる全力飛行。まるで、予選のタイムアタックだ。
正々堂々、手の内全てを見せる。これで抜かれたら仕様がない。これが、自分のベストだ、と言わんばかりの工藤の飛びっぷりであった。
勿論、工藤の速さは尋常ではない。
コンバットでペナルティを喰い、空中給油でタイムロスをし、それでも、トップのハンナ・レイチェルとの差を約１分と言う所にまで詰めて来ているのだ。その健闘ぶりは讃えられていい。工藤とて、伊達に全米チャンピオンシップのチャンプ候補と言われている訳ではないのである。
（・・・速いっ！〉
独特の「震電」の後姿を目前にして、飛燕はその速さに息を呑んだ――速い。信じられない位に速い・・・とまで思ったのは、飛燕が弱気になっている、何よりの証拠だった。いつもなら、そう思うより先に、ブチ抜いてやる、と闘志を燃やすのが飛燕である。
とてもついていけない。
ふと、頭をかすめた弱気を飛燕は振り払う――飛燕の中で、様々な想いが交差する。
――父母に警った、世界の頂点への道。
トップに離されながらもレースを捨てず、ベストを尽くす工藤の後姿。
ベストを尽くせば、結果は自然について来る、と言った飛鳥。
レイモンドの前で見栄を切った、誰にも負けない、と言う自負――
・・・そう、あたしは誰にも負けない。負けられない。勿論、自分にだって・・・こんな事位で負けられるか！
そして、飛燕の自分を相手にする戦いが始まった。
翔は、現在１３位。
目前のスティーブ・バージとの差が、じりじりと詰まって行く。
スティーブも翔の猛烈な追い上げを知ってペースを上げているのだが、それでも翔を振り切れない。それ程までに翔は速かった。
豪快無比。
翔のフライトはその一言に尽きる。
とにかく、全開、全開、又、全開。スロットルなど、もう殆ど戻さない。
ラダーとスポイラーの差動で進行方向に腹を向け、推力をもってその姿勢を維持。そして、胴体側面と主翼そのものをブレーキに使うハードブレーキングで一気にスピードを落とし、思い切り早いタイミングで機首の向きを変える。多少ラインを外しても気にせずに機を滑らせて辻褄を合わせ、圧倒的大パワーにモノを言わせて全力加速、猛然とコーナーから飛び出して行く。
コーナリングワークの切れ味を刃物のそれに喩えるなら、翔のそれは、剃刀ではなく、荒武者が力任せに振り下ろす豪刀である。切れ味はともかく、下手に受けようものなら、一撃のもとに粉砕されるであろう。
その迫力。
それが、見る者の胸を騒がせる。
東Ｔ．Ｓ．伊江のターン。コーナーごとに豪快なパフォーマンスを見せつける翔と共に歓声の渦が沖縄を駆け抜ける。
そして、西Ｔ．Ｓ。翔は遂にスティーブを追い詰めた。
翔のキー８３は７５００hp。スティーブのＰ−３８は６０００hp。今大会屈指の大出力機同士のバトルである。
が、ノリにノッている翔の前には、スティーブ・バージのテクニックも、Ｐ−３８の６０００hpのパワーも無力に等しかった。
翔はスティーブのインサイドにつくと、ブレーキを遅らせて一気に前に出る。そして、お得意のスライド、急減速。瞬間、スティーブのラインを塞ぐ。
――突っ込む！
と、咄嵯に判断してスロットルを戻したスティーブの目前から、幻のようにキー８３はその姿を消し、あっと思った時には、キー８３は既にバンクを戻して次のコーナーに向かっていた。
Ｃ１での戦歴３年。ＡＡＲＣの元エースを、まるで赤子の手を捻るように容易に抜き去った翔の鮮やかさに、観客の間から感嘆のどよめきが上がる。
「――うわあ、凄えなあ・・・コーナーに入ってから出るまで、機体が殆ど横向いてるぜ」
呆れたように言った西の言葉に、河原も苦笑混じりに応じる。
「正にＣＣＶ機並だな」
「まさか、ＣＣＶなんじゃないだろうな」
「そりゃないだろ、いくらなんでも」河原は笑ってそれを打ち消した。「操縦系にＦＢＷは使っている、って話だけどね。ＣＣＶじゃないよ。大体、ＣＣＶ技術ってのは機体の制御技術が主だろ。もし、ＣＣＶ機のエアデータコンピューター並の操縦が人間に出来れば、そんな大それた仕掛けはいらないのさ」
「・・・バケ物だな」
西が呆然とした口調で呟いた。
「確かにな。あれだけのモンスターを手足のように使いこなす・・・あいつらは絶対、マトモな人間じゃないよ。
それにしても、今日の飛鳥は凄い。ひょっとしたら、今の飛鳥にかなうパイロットなんて、いないんじゃないか」
７周目、西Ｔ．Ｓを過ぎる頃飛燕は工藤にすこしずつ遅れをとり始めた。
コンセントレーションを維持出来なくなってきている飛燕だった。大体が気分屋の飛燕だけに、肉体的な限界より先に精神的な限界が訪れていた。
――暑い。
正に灼熱の地獄だった。
９０℃を越えるコックピット。余りの高温に、汗は即座に乾いてしまう。夥しく絞り出される汗は、その痕跡として塩分を残した。既に、飛燕の肌も、服も、その塩分でごわごわになっている。
喉が乾き切り、焼き付くようだ。コックピット内に飲料水を積んではいるのだが、熱湯と化していて、とても口に出来たものではない。
暑さに頭がぼうぅとしてくる。その暑さの中で既に１時間以上、コンセントレーションを保っていたのが不思議な位だった。
もう限界だった。
それは、飛燕が誰よりも判っている。
だが、飛燕の中には猛烈な悔しさがあった。
（こんな事で・・・こんな事位で諦められるかっ！）
と、飛燕の中で、諦めの悪い自分が叫んでいる。が、もう、コンセントレーションを維持出来ず、自分の力を発揮出来ない。その事が、堪らなく悔しい。
――どうにかして。この暑さを、誰かどうにかして。
その、悲鳴に近い程の想い。飛燕は、血が出る程に唇を噛み、悔し涙を零した。
「――こん畜生！」
腹立ち紛れに叫んで、飛燕は拳をコンソールパネルに叩きつけた。カーボンのパネルが悲鳴を上げてひしゃげ、計器がひとつ、完全に壊れて破片を撒き散らした。
――と。
ぶうん、と、何か機械の捻る音がした。
エアコンのファンが回り始めた。まだ熱いが、ダクトから風が吹き出して来る。
（エアコンが・・・直った！）
まだ涼しくなった訳でもないが、それだけで飛燕は希望を取り戻した。
いける。
これで、また戦える。
それだけの事が嬉しくて、飛燕は涙を流した。
コンソールパネルを殴りつけた左手が痛む――「飛燕」の痛みだ、と思った。
「ごめん」無惨に壊れた油圧計に一瞬だけ視線を投げて、飛燕は呟くように言った。「・・・でも、もう一頑張り、お願い――いくよっ！」
僅かに残った気力を振り絞り、飛燕は戦いを再開する。
この７周目半ばにして、ノースロップのロナルド・マース、ＭＢＢのジークフリード・アドラーが相次いでリタイヤ。これで、残る機体は２０機。
更に、ＢＡｅのロジャー・グラスは「テンペスト」のネイピア・セイバーエンジンが不調となり、ペースダウン、ケリー・バレットも「コルセア」のエンジンがオーバーヒート気味でペースを落とし始めた。
『スタートから、２時間と３分が経過しました。７周目を終えて、トップは――』
場内放送のアナウンサーの声に、観客の視線が最終コーナーをターンして飛行場上空に飛び出してくる機体に集中する。
『――トップは、ハンナ・レイチェル。その後、これは大分追い上げました、ビル・ジョイスが僅かの差で続きます。３位はエディ・ブラッグ。トップとの差は手元の時計で１５秒位でしょうか。
４位はジム・シンプソン。しかし、５位のアラン・クリスタンとの差は、殆どありません。６位は星野深雪。トップとの差は、先程よりやや開いて５０秒と言う所です。現在、日本勢としてはトップとなるだけに、ここは健闘を期待したい所です。
その後、トップから５５秒差で７位、工藤隼人。そして、その直後に陽飛燕と、今大会屈指のスピードランナー２人が追います・・・』
「――リタイアですか？」
と、念を押すようにして下村は訊いた。
飛鳥は、黙って額く。
仕方なく、下村は沈痛な表情でマイクを取り上げようとした。
丁度、その時。
ピットの指示を待たずして飛燕の声がレシーバーから飛び出して来る。
――エアコンが直った、と。
「飛鳥さん！」
勢い込んで振り返った下村に、飛鳥は苦笑混じりに言う。
「・・・しゃあねえな。お前の言いたい事位判っているよ。好きにさせてやれ」
「はいっ」
嬉しそうに大声を張り上げて下村は答え、マイクを取り上げた。
「――飛燕、飛ばせっ。やつらを逃がすな！」
それは、既に本来冷静である筈のピットの指示ではなかった。
８周目、コンバットステージ。
事実上これが最後のコンバットエントリーとなる。このコンバットを終了した時点で、真のポジションが明らかになるのだ。
レーサー達は次々に最後の戦場へと飛び込んで行く。
が、１２位につけた翔と、１０位のスティーブは共にコンバットステージに入らない。この２機は既にコンバットノルマを終えている。その事がの目にも明らかになった。
コバルトブルーの海と空の間を切り裂いて、キー８３が全力疾走する。その後を懸命に追うＰ−３８。そして、上空で操り広げられる教しいエアバトル。
キー８３が、Ｃ．Ｓのストレートを駆け抜けるのが早いか。
あるいはコンバットステージて戦う誰かが、いちはやくノルマ終えてコースに戻るのが早いか。
いれにしても、トップはそれで決まる。
レースを見守る誰もが、固唾を呑み、あるいは声を枯らして声援を送りつつ、熱い視線を注ぐ。
誰がトップになるか――飛鳥か。ハンナか。ビル・ジョイスか・・・
この時、コンバットステージの上空で一気に逆転を狙う者がいた。
飛燕である。
既に４回目のコンバットエントリーでノルマの１０ポイントを上げていた飛燕にとって、この５回目のコンバットエントリーは形だけで充分だった。
その事を飛燕は最大限、活用する。
高度９０００ft。
コンバットにしてもかなり高い、この高度にまで上昇したのには２つの理由がある。ひとつはコックピット内をいくらかでも涼しくして頭をはっきりさせる事、もうひとつは――いずれ、判る。
とにかく、自分より上のポジションにいる連中は、皆それなりの猛者ばかりだ。尋常な手では抜かせてくれる訳がない。だからこそ飛燕は思い切った勝負に出る事にした。
ここまで上がると、ベンチレーターから流れ込む空気はかなり涼しくなっている。飛燕は集中力が戻って来るのを感じる。
そして。
気合一閃。飛燕は急角度で機首を突っ込み、フルパワーをかけた。
「――飛燕が・・・あいつ、コンバットステージで急降下かけてます！」
と、驚きの声を上げたのはギュンターだった。
しかし、飛鳥は動じない。
小さく、しかし、嬉しそうに笑う。
「まったく、派手なヤツだぜ。俺が面白いな、と思うような事ばかりやりやがる」
Ｃ．Ｓのストレート。翔はキー８３に全力飛行を要求した。
速く、速く、もっと速く――最大出力７５００hp、最高速度は７７０km/hを超えるキー８３がじれったく感じられる程に、この時の翔は気が急いている。
早く、早くしないと、トップを逃がしちまう――と、翔は焦る。
だが、翔の焦りも空しく、ハンナ・レイチェル、そして、ビル・ジョイスが相次いでコースに戻る。その差は、距離にして１kmと少し。タイム的には約７秒。
「ちっ・・・」
翔は悔しそうに舌打ちした。
「焦らないで。ここまで順位を上げたんだから」
と、真樹子が一声かける。
それで、翔は気を取り直す――まあいい。３位は貰う、と思い直す。
この時、真樹子はコースに戻ろうとするジム・シンプソンのＦ８Ｆとアラン・クリスタンのＶＢ１０と、猛烈な勢いでその背後に迫る飛燕に気付いた。
そのスピードは、真樹子が目を疑う程、速かった。
飛燕は、全速パワーダイブでコンバットステージを駆け下りる。
稲妻が走る。その勢いであった。
大体が突っ込み速度にかけては無敵の「飛燕」である。スピードメーターの針は踊り、既に８００km/h以上を指している。
（ハンナは逃がした・・・でも、３位はあたしだっ！）
その気迫が乗り移ったかのように「飛燕」は鬼気迫るダイブを続ける。
天空を翔る為に生れたエンジンが、降下をする為にその全力を尽くす。海面上の一点を目指して突っ込む機体。機体と海面との間で次第に唸りを高めていくエンジンの咆吼。
（・・・カミカゼだっ！）
恐怖の記憶を取り戻し、思わず目を閉ざした元米海軍軍人が幾人もいた。
飛燕は圧倒的なスピード差で、ジム・シンプソンとアラン・クリスタンをブチ抜く。
「・・・何ぃ!?」と、シンプソンは息を呑んだ。
「馬鹿なっ！」と、クリスタンは目を剥いた。
飛燕のスピードは抜かれた２人のパイロットですら即座には信じられない程だった。
そして、それを認識した所で、２人のパイロットは同じ事を思った。
（あのスピードで・・・曲れる訳がない！）
いや、それ以前に、あの降下角から機首を引き起こせるのか。
――突っ込む。
それは、２人だけではなく、誰もが思った。
しかし、である。
スピードには魔力があった。飛燕のスピードに驚愕し、本能的な恐怖を覚えながらも、シンプソンとクリスタンは飛燕に引っ張られるようにしてスピードを上げた。
翔も、思わず釣られてハイスピードで名護のコーナーヘアプローチしかけた。
が、この時、真樹子には、まだ状況を冷静に判断するだけの余裕があった。尤も、その為乗っているようなものだから、当然と言えば当然だが。
「だめーっ、ブレーキ！インサイド一杯に寄って！」
と、真樹子は鋭く翔を制止した。
翔は、はっとしてスポイラーを広げた。キー８３がぐっとそのスピードを落とす。
気違いじみたスピードでアプローチをかける飛燕。
これ程のスピードでここまで突っ込んだ経験は飛燕とて未だかつてない。
１００％曲れる、と言う自信はない。恐怖もある。
だが。
それでも飛燕は、やる。
飛燕は、その卓越したスピード感覚を研ぎ澄まして限界を探る。限界を超えれば、その先には死が待っている。これで曲がり切れれば３位。それだけの為に飛燕は命を張る。
（・・・ここが、限界！）
理屈ではなく、カンで飛燕は限界を察知。ターンに入る。
スティックを倒してロール。そして、両腕をスティックにかけて引く。「飛燕」は引き起こしながらの急旋回。
Ｇがかかる。
「飛燕」はその翼の発生する揚力の全てをかけてＧに対抗する。
しかし、７００km/h以上のスピードからの急旋回である。引き起こしによる減速効果で多少は速度が落ちたものの、発生するＧを支える事は不可能だった。
アウトサイドのバルーンと、海面が迫る。
「このォ・・・！」
飛燕はＧに逆らい、渾身の力を振り紋ってスティックを引く。
凄まじい高Ｇ機動だった。
頑強さが売物の「飛燕」ですら、この機動には軋み、悲鳴を上げた。
しかし、「飛燕」は主の信頼に応えて、海面上ぎりぎりで踏み止まった。
バンクした左翼端が波頭をかすめる。正に間一髪であった。引き起こしがあと３０cm低かったら、「飛燕」は海面に翼をとられて突っ込んでいただろう。
飛燕、名護のコーナーを海面すれすれの高度から水煙を引いて立ち上がる。
「――回ったっ!!」
息を呑み、手に汗握って注目していた観客の間から、驚きと感嘆のどよめきが上がる。
驚いてばかりいられなかったのは、飛燕の直後についていたシンプソンだった。
シンプソンは飛燕に引っ張られ、完全なオーバーペースでコーナーに飛び込んでしまった。
――しまった。と、シンプソンが思った時、既にＦ８Ｆは彼の限界を超えていた。
シンプソンは限界一杯の急旋回をうつ。しかし、コーナーを回り切れない。バルーンが迫り、シンプソンは無我夢中でスティックを引く。
９Ｇを超えるＧがかかった。
その瞬間、Ｆ８Ｆの特徴のひとつであるセーフティウィングか作動した。主桁に仕込まれた爆発ボルトが翼端９０cmを吹き飛ばす。
シンプソンのＦ８Ｆは失った揚力の分、外へ泳いだ。バルーンに突っ込む事は逃れたものの、大きく姿勢を崩してコースアウト。
その中で、一瞬、機が水平を保った瞬間を狙って、ベイルアウトしたのは、シンプソンも、さすがプロの戦闘機乗りだけの事はあった。主に捨てられたＦ８Ｆは海に落ちて水柱を上げた。
災難だったのは、その後を飛んでいたアラン・クリスタンである。
クリスタンは、シンプソンのＦ８Ｆが墜落し、目の前に水柱を上げたのに、それこそ心臓が口から飛び出さんばかりに驚愕した。
だが、クリスタンとて限界一杯の飛行中である。避けようがなかった。
クリスタンのＶＢ１０は水飛沫の中にモロに突っ込んだ。水柱に直撃された訳ではないので、何とか墜落だけは逃れられたものの、ＶＢ１０のイスパノスイザエンジンは海水をたっぷりと浴びてミスファイアを起こし始めた。
タンデムツインエンジンのＶＢ１０だけに、動力関係には高度なバランスが要求される。とてもじゃないが、こうなっては戦闘力を維持出来ない。
インサイド一杯を余裕をもって旋回した翔に、この災難は無縁だった。
がっくりとスピードを落としたＶＢ１０を難無く抜き、翔は飛燕を追って東Ｔ．Ｓヘ。
――又、真樹子に助けられたな、と、翔は思った。
飛行場は騒然とした。
１度に多くの事が起き過ぎた。
ジム・シンプソンの墜落と、それに巻き込まれたアラン・クリスタン。
ダイナミックな急降下で３位に浮上した飛燕。とうとう４位にまで追い上げて来た翔。
レースはここに至って急報回を見せていた。
「――３位です。３位！トップとの差、７秒！」
ＡＡＲＣのテントハウス内に活気と笑顔が満ちた。
やはり飛燕はＡＡＲＣのエースである。
スティーブ・バージの健闘も、トニー・アレンの堅実も、飛燕の華やかな活躍の前には色褪せてしまう。
「やりやがったな」
飛鳥も、心から嬉しそうな笑顔を見せる。
「よおしっ！」下村は、気合を入れて右の拳を左の掌に叩きつけるとマイクを取り上げた。「――いけっ、飛燕！負けるなよっ！」
ＭＡＣのテントハウス内も沸き返っている。
「――追いついた！４位だっ！」
「トップとの差は!?」
「８秒・・・位か――でも、上はハンナ・レイチェルにビル・ジョイス、それと陽さんだぜ。簡単には勝たせてくれそうもないなぁ」
「なあに、今までのラップタイムならうちの方が速いんだ。負けるものか」
そうとも。ここまで来たんだ。どんな速いヤツが相手だって、負けるものか。
熱く盛り上がる空気の中で、須藤は無言のまま橘を振り返った。
橘は、ただ静かに微笑して頷いた。
須藤は柄にもなく人前て滲ませてしまった涙を拭うと、真琴から受け取ったマイクに感極まった声を送り込む。
「後は任せた。目一杯、行けっ！」