| ＰＡＲＴ ３ 特訓 | |
「正気か？」
計画書にざっと目を通した須藤は、上目遣いに翔を見上げ、確認するように訊いた。
「当然」
翔は平然と答えた。
「・・・これじゃあ、機体か、マキちゃんか、メカニックか・・・それとも、お前か・・・とにかく、どれが最初か判らないが、潰れるぞ」
「この程度で潰れるものは潰れてしまえばいい」
「――ったく」須藤は、匙を投げたかのように計画書を机の上に放り投げると、げんなりした声で言った。「・・・勘弁してくれよ。何より俺の神経が持たん」
――翔の立てた訓練計画は、限界以上に厳しいものだった。１日の稼働時間は実働１２時間、うち飛行時間は法規制一杯の８時間。飛行内容は特殊飛行訓練を含む、低高度高速長距離飛行。これを、６日間、ぶっ通しで、やる。
「チャンピオンシップと違って、世界選手権は一発勝負だから、チームにも、機体にも、１００％の信頼を持って臨みたい」翔は淡々と言葉を連ねた。「この位の事はやらせて下さい」
「お前の言ってる事は判るさ、でもな・・・」須藤は考え込んだ。「厳し過ぎやしないか？これはもう、航空法の管理規定一杯だぜ。これ以上出来ないって所までやるのか？」
「わかってます――僕だってまだ、こんな無茶はやった事ないです。やり遂げられるかどうか、僕自身、自信はないし・・・まぁ、無事に終わるとも思っていませんけどね」
「うーん」須藤は苦しい表情をした。が、須藤も腹をくくって決断をした。「――管理者として、一応、言わせて貰うが、少なくとも、ここに書いてある稼働時間と飛行時間だけは守ってくれよ。どっちも規定ぎりぎりなんだからな」
計画のＧＯサインが事実上出た事にほっとしつつ、翔は答える。
「まぁ、無理ですね――大体、稼働時間はオーバーする事を前提にして予定組んでいますから」
「おい、翔」
「大丈夫。稼働時間なら、いくらでも誤魔化しようはあるでしょう」と、翔はいたずらっぽい表情で言った。「要するに、書類上で収まっていればいいんでしょ？」
「おい」
苦笑いを口の脇に引っかけながら、須藤は翔をたしなめた。――事実上、そうには違いないのだが、開き直って堂々と口にされると返事に困るものだ。
「そう言う事をはっきりと言うもんじゃない」
「ただ・・・」と、翔は先程までとは変わった真摯な口調で言った。「こんな事を僕が言うのは生意気かも知れませんけど、この位のシメをくれてやらなきゃ、チームなんてのはまとまりませんよ」
それでも結局、須藤は翔の立てた計画を、ほぼ全面的に承認した。
――確かに、翔の言う通り、やらなきゃならない訓練ではあるんだ、と須藤自身も思う。勿論、あまりにも厳しい、その内容には不安を覚えていたが。
それでも尚、やらなければならないのは、チーム内に山積みにされている様々な問題のせいだった。
――お世辞にも戦闘力のあるレーサーとは言い難いキー８３。レースの経験どころかレシプロ機自体ろくにいじった事のないメカニックたち。
そして。
きらりと光る素質の片鱗を窺わせながら、未だアマチュアの域を出ない真樹子・・・
訓練初日。
誰もが、この訓練の厳しさを意識して緊張していた。その中で、この訓練の立案者たる翔だけが、日頃と何ら変わらぬ素振りを見せていた。
「今日からは、本気で振り回すぜ」
「え？」真樹子が怪訝そうな顔をする。「今までだって、さんざ振り回してたじゃないですか？」
「昨日までのは、ほんのお遊びだ」
「え？」
真樹子は、超低空での高Ｇ垂直旋回を含む特殊飛行訓練のどの辺が遊びだったのか？と訝った。
その答えは離陸してすぐわかった。
翔は離陸し、ギヤアップした後もスロットルを全開にし続けて速度を上げた。そして、急旋回。機首を再び滑走路に向ける。
真樹子が、離陸針路と違う、と言いかけた時には、キー８３は既に滑走路に向けてフルスロットルで突っ込んでいた。
灰色の滑走路が、ぐん、と迫る。
ギリギリのタイミングを狙って引き起こし。超低空をフルスロットルで駆け抜ける。滑走路端で機首上げ、パワーを生かし、垂直に近い角度で、しかもロールをうちながら上昇し、場周飛行。
「今の高度、最低で何ｍだった？」
「５ｍ！」
そんな高度では普通の高度計は働かない。真樹子は着陸進入用の電波高度計から読み取った高度を答えた。
「はん、まだ余裕あるな」
「・・・冗談でしょう？」
「誰が冗談を言ってるって？」
真樹子は、ぞっとした。――勿論、飛んでいる事が怖いのではない。今、真樹子が恐れているのは翔だった。翔が次に何をやるのか、それが一番怖かった。
「なぁに、ペラが地面叩くまでは大丈夫さ」翔は気楽な感じで、さらりと言った。「今日からはアクロ黙認だからな・・・見物客は多い方がいいやね」
地上では須藤が渋い顔をして空を見上げていた。
（馬鹿が・・・）
アクロバット飛行ひとつやるのにも運輸大臣の許可が必要な日本の空で、何も考えていやがるんだ、と苦々しく思う。
「あれ、何やってんです？」
メカニックの中島が、目を丸くして須藤に訊いた。
「あの馬鹿が・・・悪ノリしやがって」須藤も、ここまで来たら開き直るしかない。「他の連中にも出て来るように言って来な。この調子だと、まだまだ馬鹿やるぞ」
「さて、ギャラリーも揃いましたな」翔は地上を見下ろして、嬉しそうな声を出した。「それでは、ご期待に応えて低空背面、いきますかね」
「え・・・低空背面？」真樹子は背筋が寒くなるのを感じた。「ち、ちょっと、それって冗談じゃないですよ！止めて下さいっ！」
「大丈夫だよ。背面じゃ、いくらゼロ・ゼロシステムだって役に立たないし、ミスりゃ、そのまま地面にめり込むだけだからな」
「・・・」
――そう言うのは、普通、大丈夫とは言わないんじゃない？と真樹子は思ったが、口に出す寸前で止めた。今更言ってみても無駄だな、と悟ったのだ。
翔は再び滑走路に向けてキー８３をパワーダイブ。高度が下がった所でハーフロール。背面になる。
「きゃあっ」
「情けない声出すなっ！」
スティックを押し気味にした姿勢だから、地平線が随分と頭の方にある。キャノピーの向こうを地面が流れる。
（さっきよりはちょっと高度が高いかな）
と、翔は感じた。勿論、それでも絶対的に危険な事に変わりはない。
翔は高度をちょっと上げ、慎重にハーフロールを行って姿勢回復、機首を上げ、ストールターン。今度は４ポイント・ロールを見せる。
滑走路端で垂直旋回。そして急上昇。３５００ftまで昇り、５Ｇかけて宙返り。そのループの頂点から、急降下。６Ｇ引き起こし。
ここまでやってから、翔は漸く予定の針路をとった。
「・・・やってくれるぜ」須藤は、内心、ほっとしつつ呟いた。「あとは、マキちゃんがどこまで保つかな・・・」
それから２時間余り後。
予定通りキー８３は戻って来た。
滑走路からタキシングしてエプロンに戻ってきたキー８３にクルーが駆け寄る。
翔は、エンジン回転を一旦上げてプラグの油を焼き、それからエンジンを止めた。冷えて行くエンジンが、キン、キンと小さく鳴る。
ステップが用意されるのももどかしく、真樹子がコックピットから飛び降りた。そのまま一目散に排水溝の所まで走ると、胃袋の中身をぶちまける。
地上クルーの中の、紅一点、辻真琴が、慌てて駆け寄り、苦しげに咳き込む真樹子の背をさする。
翔はそんな真樹子を頭ごなしに怒鳴りつけた。
「こらっ、何やってる！着陸したら、まず機体のチェックだ」
「すいません！」
真樹子はそれでも大声で返事すると、機体に戻ろうとした。が、さすがにその足元がふらついている。
「自分の後始末は自分でやれ。それからでいい」
「・・・」真樹子は、自分の吐瀉物を振り返り、納得したかのように頷いた。「はい」
「――どうしたんです？」
前席ステップを用意した、機体付きクルーの中島が、心配げに翔に尋ねた。
「いや、ちょっと振り回してみたんだけどね。乗り物酔いじゃないかな？」
「振り回した、って・・・あんな感じで？」
「そう、あんな感じで」
「はは」中島は空笑いした。それから、急に真剣な顔になる。「・・・無理もない」
「中島君、ビニール袋を用意しておいて貰えるかな・・・あいつ、飛行中に口の中まで戻しているのに、我慢して、また呑み込んでいるんだよね。その音が、マスクのマイク通じて筒抜けだろ。気色悪くてしゃあない」
中島もこれには顔をしかめた。自分も吐きそうな表情になる。
「・・・あと、他に何かあります？」
「不具合は後でまとめて報告する。ガスチャージとチェック頼む――あ、あと、ウィンドシールド磨いてくれるかな。低空飛行続けたので、塩で曇った」
「わかりました」
「――飛鳥さん」と、中島への話が終わるのを待ちかねていた真琴が、翔に声をかけた。「あの・・・橘さん、大丈夫ですか？」
日頃から真樹子を姉のように慕っている真琴である。その目には明らかに真樹子を案ずる気持ちと、翔を非難する気持ちが表れていた。が、翔はまともに取り合わない。
「吐くものがなくなっちまえばな・・・あ、それからの方が辛いか」
「あ、あのですね」
「少なくとも俺はこの程度じゃなんともない。大体、この位でへばるようじゃ、使いものにならない」
「――片づけ終わりました」二人の会話に割り込むようにして真樹子が言った。「すみませんでした。これからチェックに入ります」
「ん・・・頼む」
「はい」と真樹子は答えたが、さすがにいつもの元気はない。それから、真琴に声をかける。「マコちゃん、今日の昼御飯、あたしの分、いらないから」
「――食わなきゃ保たないぞ」無理だろうな、とは思ったが、翔は一応言ってみた。「無理してでも食っておいた方がいい」
真樹子は力無く首を横に振った。
「そうか・・・なら、仕方ないな」
翔は諦めたかのように呟いた。――が、真樹子がチェックの為に機体に向かうと、真琴にこっそりと耳打ちする。
「俺も、昼飯、いらないからな」
「あ・・・飛鳥さん？」
え、と言うような感じで振り向いた真琴に、翔は黙って、とジェスチャーで示した。
「橘さんには、言うなよ」
と、再び真琴に耳打ちし、翔は機体に足を向けた。
その日は予定通り、８時間飛んだ。
さすがの翔も疲労をかなり覚えていた。
無理もない。
ただ８時間飛ぶだけでも楽な事ではないのに、神経を擦り減らすような低空高速飛行に、全身運動とも言える特殊飛行を繰り返し行ったのだ。
（・・・ったく、誰だよ。こんな馬鹿な事、思いついたヤツは・・・）
――それにしても、よく頑張る・・・と、翔は真樹子を少し見直していた。今日の、あれだけ激しい飛行の中でさえ、真樹子の出す指示は信頼するに値するものだった。
午前中の飛行で戻したのは、Ｇに慣れていないからだろうが、それでも吐き出さなかったのだから立派なものだ。口の中まで戻しているものを呑み下すなんて真似は、簡単に出来る事ではない。尤も、後でマスクを拭いていた所を見ると、多少は吐き出していたのかも知れないが――
と、自室にて今日の飛行を思い返しながら報告書を書いていた翔の手を、ノックの音が止めた。
「はい・・・どうぞ」
ドアを開けて入って来たのは真琴だった。
「あの・・・」真琴はおずおずと口を開いた。くりっとした感じのよく動く瞳が、今は心配に曇っている。「橘さんの事なんですけど」
「どうした？」
「結局、晩御飯も食べられないって。あのままじゃ・・・」
「仕方ないな・・・食えないなら、食えるようにしてやるまでさ」
「えっ・・・あの」
もう少し橘さんを労って上げて下さい、と言おうとしていた真琴は、意表を突く翔の言葉に戸惑いを見せた。
「橘さんに、１５分以内に全装備を着けて格納庫前に来るように伝えてくれ――すぐにだ」
「・・・でも、もう夜ですよ」
「飛ぶ訳じゃないさ」翔は少し笑った。「飛ぶ訳じゃない」
それから１５分後。
全装備を身に着けて真樹子は格納庫の前で翔を待っていた。
昼の飛行の疲れが身体から抜けず、立ち続けているだけで辛い。頭の中を引っ掻き回されたような不快感はまだ残り、もう吐くものなどない筈なのに嘔吐感が消えない。
「あ、もう来てたのか。ごめん、遅くなった」と、翔は声をかけた。「――それより、飯食ってないんだろ、いいのか？」
「ええ・・・まぁ」
真樹子は、ちょっと困惑したような表情で曖昧に頷いた。それから、同様に全装備を身に着けた翔の姿に首を傾げる。
「レポートは書けた？」
「いえ、まだ・・・それより、何をするんですか？」
――飛ぶ訳じゃないよね・・・と、真樹子は格納庫の中で未だに整備作業の続いているキー８３に視線を走らせつつ思った。
「まぁ、焦るなって」翔は笑って質問を受け流し、「――中島君、ちょっと」
と、格納庫内の中島を呼ぶ。
「何か？」
中島が油にまみれた手を休めて振り返った。
「予備のパラシュート、あるだろ？ふたつ、持って来てくれるかな」
程なく、中島が大きめのリュックサック程の大きさになるパラシュートをふたつ、重そうに抱えて持って来た。
「ありがとう」翔は、中島からパラシュートを受け取って、その重さに満足したかのように頷いた。「これ、着けて」
翔は、真樹子にパラシュートをひとつ渡すと、自分の分のパラシュートをトルソハーネスに着けた。真樹子も訳がわからないままに翔に従う。
パラシュートの重さは１０kg程。その重さがトルソハーネスを肩に食い込ませる。
「さて、と。準備の出来た所で、そろそろ行きますか」
「？」
「飛行場一周ランニング。フル装備だと、ちょっとした運動になる筈だ。――これで、ちっとは腹も減るだろ」
「え・・・この格好で、ですか？」
「フル装備で、と言った筈だ。――勿論、俺も走るからさ。さ、行こう」
こうまで言われては走り出すしかない。
・・・が、１００ｍも走らないうちに真樹子は後悔した。軽量化の計られたエアレース用の飛行装備とは言え、それだけで１０kg余りの重量はかなりの負担になる。その上、尻の後ろにぶる下がるパラシュートが足を進める度に腿の後ろを叩く。
辛い。
――こんな調子で飛行場一周？と考えて、真樹子は気の遠くなるような感じを覚えた。
普通に走る何倍の体力を使うのかな、などと考える余裕があったのも最初のうち。すぐに何も考えられなくなる。
流れ落ちる汗が、目にしみて痛い。心臓は慌ただしく動き、肺は少しでも多くの酸素を求めて、喘ぐ。とにかく、前を走る翔の背中を追う事。それだけの事に、真樹子は全力を尽くした。
飛行場を夕闇が包む。
ランディングライトが滑走路を華やかに彩るが、真樹子には既にそんな事に気付く余裕もない。
身体が要求する呼吸量について行けなくなった喉が悲鳴を上げる。胸が熱く、苦しい。心臓が破裂しそうだ。
（・・・もう駄目）
そう思った途端に足がもつれた。真樹子は、そのまま転倒する。転んだ痛さを感じる余裕もなく、むしろ動き続けていた身体の熱さに、冷たいコンクリートが妙に気持ちよかった。
そんな真樹子に、翔は容赦なく声を浴びせる。
「どうした？立てよ。まだ半分も走ってない」
（え・・・本当に？）
と、反問したつもりだったが、真樹子の喉からはかすれた喘ぎが漏れただけだった。
「――立て」
翔は、冷たい、ともとれる口調でもう１回、言った。
真樹子は立ち上がった。再び走り出す翔の後を懸命に追う。
それから。
幾度となく真樹子は足をもつれさせて転倒した。昼間の飛行の疲れに空腹も手伝って、身体がまるで言う事を聞かない。意識も朦朧とし、目の前に、星のようなものがちかちかと輝く。
（なんで、こんな事やらなきゃならないの？）
そう思い、半ば泣きべそをかきながらも真樹子は翔の後を走り続けた。
そして・・・長く、苦しい飛行場一周が終わった時。
真樹子は、そのままその場に倒れて、仰向けに転がってしまった。
火照った身体に、地面近くを吹き抜ける夜風が心地よい。冷たく、固いコンクリートも、今の真樹子には、疲れて倒れ込むふかふかのベッドに等しかった。どっと吹き出す汗が、コンクリートに見る間に染みを広げて行く。
暫くの間、真樹子はそうしていた。が、朦朧としていた意識がはっきりして来るにつれて、気になる事を思い出した。
（そうだ・・・飛鳥さんは？）
同じ事をやったんだから、やっぱり堪えている筈よね・・・との真樹子の予想に反し、翔は座り込んでさえいなかった。呼吸こそ荒いものの、平然とした顔で立っている翔に、真樹子は目を見張った。
――勿論、実の所は翔だって苦しいのだ。が、真樹子の手前、意地でも苦しそうな素振りは見せられない。
「ひとつだけ言っとく・・・」と、聞き苦しくならないように気をつけながら、翔はゆっくりと話し出した。「俺のコ・パイになる・・・いや、俺と一緒に飛ぶと言うのなら・・・とにかく、ついて来て欲しいな」
「・・・」
「要求するのはとりあえずそれだけだ。――ま、それすら出来ないようでは話にもならない」
「飛鳥さん・・・」
真樹子は漸く手をついて半身を起こし、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「・・・ま、とりあえずはこれをやり遂げる事だ。――今日のレポートと明日のフライトプランの作成、急げよ」
と言って、翔は背中を見せた。
「はい」
力無く答えた真樹子にとって、歩み去っていく翔の背中は、その時、とても遠いものに感じられた。
「ハードだねぇ・・・」
と、須藤は感心したかのように言った。
「ま、ね。初日だからこんなモンでしょう」と、翔は応じ、そしてぼそりと呟く。「――にしても腹減ったな」
「なんだ、お前まで飯食ってないのか？」
「やっぱねぇ、僕だけ食う訳にもいかないでしょう」
「身体が保たないぞ」
翔は答えず、ただ、仕方ないね、と言う風に肩を竦めて見せた。
「お前は優しいな」
「甘くはないですけどね」
「わかった・・・そう言う事なら、もう何も言わない」須藤はそう言うと、口調を変えて切り出した。「――レポートの方は読ませて貰った。指摘されている問題は、明日朝までにはっきりさせる方向で動いている」
「頼みます」と、翔は一応、頭を下げたが、納得し切れずに、訊く。「でも、明日までなんて・・・出来るんですか？」
「仕方ない。徹夜になってもやらせるさ」
「そりゃまぁ・・・そうでしょうけど」
「お前たちが、あれだけやっているんだ。地上の方も、頑張らない訳にはいかんだろうさ」
「凄いな」
「凄くしたのは誰だよ」
「・・・済みませんね」
「それにしても、よくこれだけのものを書いたもんだな」と、須藤は、翔のレポートを示して言った。「そんな時間もかけてないのに・・・」
「フォーマットを決めておけばね、案外楽なんですよ」と、翔は答えた。「大体の所は事前に準備しておいて、飛行後に必要事項だけを書き込むようにしておくんです。――そうでもしなきゃ、やっていられませんからね」
「成る程」
その時、ドアがノックされた。どうぞ、との須藤の返事で、ドアが開き、憔悴し切った様子の真樹子が顔を見せた。
「レポートが出来たので・・・見て頂けますか」
「ん」
まず、翔が受け取った。一通り目を通して須藤に渡す。
「内容が薄いな」
一見して須藤は呟いた。別に、内容に不備がある訳ではないのだが、翔のレポートを見た後では、どうしても見劣りしてしまうのは仕方のない事だった。が。
「やり直し」と、翔はぴしゃりと言った。「今夜中に書き直して再提出だ」
「・・・今夜中にですか？」
顔色を変えて真樹子は反問した。――無理もないよな、と須藤は思う。時計の針は既に１０時を回っている。今からレポートを書き直し、フライトプランを作製したら、終わるのは確実に明け方になる。
「明日のフライトまでにはまだ１０時間近くある。時間はたっぷりとあるさ」
真樹子は何か言いたそうにして翔の顔を見たが、
「はい・・・わかりました」
と固い声で答えると、身を翻して足早に部屋を出て行った。
「厳しいな。何も、書き直させなくたっていいだろうに」
「そりゃそうですけど」と、翔は表情を緩めずに言った。「言ったでしょう、僕は甘くはないんです」
翌朝。
真樹子もさすがに元気がない。いつもなら威勢良く駆け回り、てきぱきと作業をこなして行くのだが、今日は動きが鈍い。
（昨夜、ろくに寝てない上に、結局、昨日一日何も食わなかったも同然なんだから無理もないさ）
と、翔は思う。
「昨日のがかなり効いてるみたいだな」と、翔はコックピットの中から離陸の準備作業に追われている真樹子を目で追いながら呟いた。「何日保つかが楽しみだ」
「・・・ムゴい人だなぁ」
ステップに上ってエンジンチェックを行っていた中島が、それを聞きつけて呆れたように言った。
「――中島君、どうした？ちょっと疲れているようだけど」
「徹夜明けですからね。――大体、こうなったのも誰のせいだと思っているんです？」
「悪かったな」
「僕たちはまだいいですよ。こいつが飛び上がったら、寝ていられますからね。それより・・・」
と、中島は真樹子を視線で示した。
「疲労、空腹、睡眠不足、と、まぁ三重苦だからな・・・きつい事はきついわな」翔はまるで他人事のように言った。「――ところでさ、このペースでこのままやっていたら、何から潰れると思う？」
「そうですねぇ」と、間を置き、中島は少し考えてから答える。「・・・やっぱり、橘さんじゃないですか？」
「さすがはメカニック、ってトコかな。マシンを信用する、ってのは」翔は妙に感心したかのような口調で言った。「でも、俺は違うな。賭けてもいいけど、俺はキー８３がまず潰れると思うね」
飛行回数を重ねる度に、真樹子も翔の行う激しい運動に急速に慣れていった。
いや、慣らされた、と言った方が表現としては適切かもしれない。
翔は真樹子の様子などまるで気にも止めないかのように厳しい内容の飛行訓練を続けたし、それについて行く事が要求されている以上、真樹子としてはそれに耐え、慣れて行くしかなかった。
初日はとうとう食事をとらなかった真樹子も、２日目からはなんとか食物を口にする事が出来た。――尤も、これは、食わなきゃ保たない、と判断した翔は、
「食べられないだったら、また飛行場一周走らせるぞ」
と脅したせいでもあったのだが。
しかし、それでも尚、激しく消耗する訓練である事に違いはなかった。げっそりとした真樹子の具合から、過労だと言う事は誰でも判る。しかも、疲労が身体の動きを鈍くさせ、集中力も落ち、ミスをし易い状態になっていた。
空中でミスしようものなら、翔の厳しい叱責の声が飛ぶ。翔の方も疲労で苛立ち気味となり、神経質になっていたから尚更だった。
地上でも同様だった。
疲労と集中力の低下によって、作業がどうしても雑になる。翔はそれを全てやり直させた。当然、作業は長引き、ただですら少ない休息時間を削る事になる。
深夜、睡眠不足の眠い目を擦りながら書いたレポートを持って来た真樹子に、書き直しを命じるのは、正直な所、翔にも辛い事だった。そんな時、半ばべそをかきながらも健気に頷く真樹子の様子は痛ましい程だった。
そうやって書き直させた、所々に涙の落ちた染みの残るレポートを読みながら、翔は思った。
（ここで、情けに負けてペースを緩めたらこの訓練の全てが無駄になる・・・ここは、心を鬼にしてでもやるしかないさ）
窓の外では空が明るくなりつつあった。