| ＰＡＲＴ ２７ 亀裂 | |
予選第１日目の結果、トップは、ハンナ・レイチェルのＨｅ１００。ラップタイム、４分５０秒０６。そのハンナに遅れる事、僅か０．５５秒で、工藤隼人が続く。
３位は、デフェンデイングチャンピオン、”キング”ことビル・ジョイス。そのラップタイム、１４分５１秒４６。
翔と真樹子は、午前の第４ヒートで１４分５２秒００を記録。更に午後の第７ヒートで５１秒６１のラップタイムを叩き出し、第１日目終了時点での順位は４位と、上出来の滑り出しである。
エディ・ブラックは午後の第５と第８ヒートにてタイムアタックをしたが伸び悩み、１５分ｌ秒５５の平凡なタイムで、今日の予選を終えた。
注目の飛燕は、午前の第４ヒートでタキシング中、前機の脱輪でストップした際に、オーバーヒートでラジエーターから湯気を吹き上げてしまい、タイムアタックをキャンセル。気を取り直して挑んだ午後の第６ヒートでは、エンジントラブルでリタイア。
下村スペシャルの信頼性の低さと、機体の冷却性能の低さに対する不安が双方共に的中した形となった。それでも、エンジン快調時の速さが卓越したものであるが故に、ＡＡＲＣはこの選択に頭を悩ます事になる。
この日、第１ヒートで、エステンハーゲンと深雪がクラッシュしたのに続き、この日はトラブルが続発した。
第３ヒートでロッキードのエリック・ガムリンが海中に突っ込み、機体を全損。パイロットのエリックは寸前に脱出して無事だった。事故の多いエリックは、慣れたもので、どうと言う事なく予備機に乗り込み、第６ヒートで１４分５０秒０６のタイムを出して、この日６位。この辺りはさすがである。
同じ第３ヒートで、ＭＢＢのジークフリード・アドラーが、着陸時に横風を喰ってＢｆ１０９の脚を析った。
更に、第５ヒート。注目の、川崎重工のジョン・マーレーの乗る、モンスターマシン、キー６４が後方エンジンをオーバーヒート、火災を発生させて緊急着陸。第７ヒートではプライベーターのＰ−８２がバルーンにモロに突っ込んで機体を小破。
不幸中の幸いは、何れの事故でも死者は出なかった事だろう。
しかし、まだ緒戦に過ぎない第１日目から、この有様では先が思いやられる。オーガナイザーとしては、明日からのレース運営を考え直さざるを得なくなった。
「明日の予選、どうする？」
「どうする、ってのは・・・明日、『飛燕』に俺のエンジンを積むのか、お前のエンジンを積むのか、って事か？」ギュンターの問いに、下村はうっとおしそうに答えた。「――そんなコト、今更言われてもしようがないぜ」
ＡＡＲＣのテントハウス。
むっとした表情を隠そうともしない飛燕と、困惑したようなギュンター、すっかり開き直った顔の下村を始め、主立ったメンバーが、総帥・飛鳥の前に集まっていた。
飛鳥は、暫く考え込んでいたが、やがて顔を上げると、
「決勝用の下村スペシャルを積み込め。明日は、それで行く」
と、言った。
「Ｙｅｓ，ｓｉｒ」
と、応えて、数人のメカニックが立ち上がって、早速ピットに向かう。ピットには、取り合えずエンジンを下ろした「飛燕」が、判断を待っているのだ。
飛鳥の判断に、飛燕も納得したらしい。表情を僅かに緩めると、テントハウスを出て行った。
その後で飛鳥は、何か言いたそうにしているギュンターに言う。
「下村のエンジンを使うのが不満か？」
「基本的に、下村スペシャルを使う事に関しては文句を言うつもりはありません」と、ギュンターは言った。「ただ、寿命の短い下村スペシャルを予選にも使うのはどうか、と思うだけです」
「下村のエンジンは、決勝用に温存しておけ、か」
飛鳥は、ギュンターの主張を口にした。
「はい。飛燕なら、あいつなら従来のエンジンで予選通過できます。たとえ、順位は中位となったとしても・・・」
「ギュンター。お前は人を見ていない」と、飛鳥は諭すように言った。「お前の言う事は確かに正しい。だがな、それはハードウェアだけの話だ。いいか、レースってのは、人間がやっているんだぞ。その事を忘れるな」
「・・・人間が？」
「気分屋の飛燕だ。予選で、苦労した挙句に中位のタイムしか出せないようじゃ、あいつ、クサっちまうぜ。あいつをノせる為に、下村のエンジンで、ずばっとタイムを出させる。その判断に文句は言わせない」
「そこまで・・・」
そう言われると、ギュンターも何も言えない。
「マン＆マシンの関係を徹底的に突き詰めた上で判断し、運営するのが、レース・マネジメントだ。よく覚えておけ」
「・・・はい」
「それから、シモ」と、飛鳥は今度は下村を呼び付けた。「飛燕には、明日、１回だけタイムアタックをやらせる。エンジンはその後オーバーホールにかけろ。必要な部品があったら、３時間でリストにして出せ。工場から取り寄せる。
それと、今日壊れたエンジンは今晩中に分解調査、問題があったら、明日からのオーバーホール時に反映しろ。いいな」
「はい」
――滅茶苦茶に忙しくなるな、と下村は思った。膝から下が、すうっと冷たくなるのを感じる。
それでも、やらなくてはならない。下村は額いた。
その頃、ＨＡＲＴも、深刻な状況に追い込まれていた。
チーフ・メカニック、サム・ハワードが調べ上げた「隼」の損害状況は、一騎当千のＨＡＲＴのメカニックの顔色を変えさせるに充分だった。
プロペラにキャノピー、ラダーはスペアパーツが手元にあった。ズタズタになったかのように見えた垂直尾翼は、幸運にも強度を受け持つトルクボックスが無事だったので、補修でなんとかなりそうだった。もげてしまった尾輪は、抵抗増大を覚悟の上で、とりあえずは固定式にする。
ここまでは、何とか目処が立った――勿論、その作業が果たして１日半で出来るのかと言う問題は残っていたが・・・
だが、皆の顔色を変えさせたのは、次の問題だった。
「――エンジンが回らない？」
「いや、回せない、と言った方が、或いは正碓かもしれないが・・・」と、苦り切った顔で、サムは言った。「プロペラを地面に叩きつけたショッグで、どうやらクランクケースに歪みが出ちまったらしい。ベアリングの当たりが出ていないみたいで、凄いバイブレーションが出るんだ。無理して回したらクランクシャフトがいっちまうかもしれない」
スペアのエンジンを用意していないＨＡＲＴだった。さすがにシリンダーやピストン位までなら予備部品を用意してはいるが、クランクケースまでは用意していない。
出力を割合に低く抑え、信頼性と耐久性に重みを置いてチューニングした「金星」エンジンのポテンシャルに頼り過ぎた事が裏目に出た感じがあった。
「――エンジンか・・・くそっ」
と、天城が呻くように声を漏らした。指の関節が白くなる位に、固く拳を握り締めている。
星野は目を閉じ、沈黙を決め込んでいた。目を開き、口を開けば弱音が出てしまいそうで怖かったのだ。
悲痛さを伴う沈黙が周囲を覆った。皆、誰かが「諦めよう」と言うのを待っていた。天城ですら、その言葉を待っていた事は否定出来ない。
だが、その沈黙は、予想もしなかった言葉で破られる事になる。
「――なんだ、なんだ。揃いも揃ってお通夜みたいな不景気な顔して」
と、太い声で、割り込んで来たのは飛鳥だった。
――通夜か・・・そんなものかもしれないな、星野も思ったから、飛鳥の言葉を否定する気も起こらなかった。
「おい、星野。お前の所、なにか部品が必要なんだろ？持って来てやるよ」
「何？」
「ケチのお前の事だから、どうせ、ろくな予備部品も用意していなくて、修理しようにも手のつけようがなかったんだろう」冗談めかしてはいたが、飛鳥はＨＡＲＴの窮状を見抜いていた。「――うちのＣ−１を使う。あいつを全速で飛ばせば、アメリカまで、往復３日もあれば充分だ」
「しかし、それじゃあ・・・」
「間に合わない、って言うのか？――嫌だねェ、”空の魔術師”もとうとう耄碌したか」と、飛鳥は肩を疎めた。「台風が、接近して来ているんだ。しかも、オーガナイザーの奴等、予想以上に事故が連発してるんで神経質になっていやがる。これ以上、天気が悪くなったら、奴等、事故を恐れて予選を延期するだろう。台風が通過する迄、２日でも稼げれば可能性はある・・・どうだ？」
「・・・確かに」
星野も、その事には納得する。
「賭けてみる価値はあるだろ」飛鳥はにやりとする。「よし、決まりだ――」
「ちょっと待て、飛鳥。これは俺達の問題だ。いくら何でも、お前にそこまでして貰う訳にはいかない」
と、星野はきっぱりと、押売りじみた飛鳥の申し出を断わった。
「馬鹿、俺は、なにも、お前に恩を売るつもりでこんな事を言っているんじゃないぞ」飛鳥は、少しばかりむっとした口調で言った。「俺は、ただ、お前と正々堂々と決着をつけたいだけなんだからな。いいか、俺の為だぞ。遠慮なんかするな」
「しかし、飛鳥・・・」
と、星野はもう１度断わろうとしたが、飛鳥の有無を言わせないような表情に、一転して受け入れる事にした。
「――済まない」
「礼なんかいい。それより、必ず飛べよ。飛んで、予選を通ってみせろ」
飛鳥の言葉はぶっきらぼうだったが、情熱を秘めた温かさと優しさがあった。
その飛鳥の温かさが、星野に張りのある笑顔を浮かべさせた。
「そこまて言われたなら仕方ないな――種も仕掛けもありません、とは言えないが、ここはひとつ、マジックを見せてやるさ」
「星野の怪我、かなりひどいらしいな」
プレスセンターで、記事をファクシミリで発送していた河原を捕まえて、西は言った。 「――輸血する血液が足りないとかで、血液提供者を探すのに大騒ぎだ。何でも、見舞いに来た工藤と橘から血を採った、って話だぜ――残念だけど、あれじゃ今回のレースは諦めるしかないな」
「先刻、ＨＡＲＴのピットに行ってみたんだけどさ・・・」河原は思わせぶりな言い方をした。「メカニックが機体を直していたよ。応急処置みたいな感じだったけどな、あれは断して帰り支度なんかじゃない」
「・・・何だって？」
西はびっくりしたような表情で訊いた。
「あいつら、決して諦めちゃいない。まだ、やる気なんだ」
「まさか!?」
「魔術師、とまで言われた星野だぜ。何か、策があるのかもしれない」と、河原は何かを期待するかのような口調で言った。「――ま、いずれ判るさ」
あの星野が、こんな事位でへこたれる訳がない・・・と、河原は信じていた。
（・・・見せてくれよ、得意の魔法をさ）
祈るように、河原は思った。
翌日。
予選第２日目は、台風が接近している事からすると意外に思える位の穏やかな空の下で、その幕を開けた。
「――台風のスピードが予想よりかなり遅いらしい」と、下村はコックピットについた飛燕に指示を与える。「いつまで保つかは知らんが、コンディションは文句ない。とにかく、１回切りのタイムアタックだ。目一杯飛ばせ」
「エンジンは？」
「決勝用の奴だ。そりゃあ、サイコーにいい調子だ――今日、飛んだら、オーバーホールするつもりだから、遠慮せずに回せ」
「うん」飛燕はそれで機嫌をよくし、笑顔で頷いた。「――咋夜も徹夜？」
「２時間、寝たかな」
「大変ね、ホント」
「それが仕事だからな、仕方ないさ」飛燕の気遣いに、下村は柄にもなく照れ、照れ隠しのように言う。「ポールを取れよ」
「取るよ」
飛燕は真剣な表情で、きっぱりと言い切った。今の自分が、決してひとりではなく、誰か他人に支えられている事を意識し、その事に対する責任感を持った表情だった。
「――取ってみせる。あたしは、エースなんだから」
飛燕の出番は、第１ヒートの第２組。一緒に飛ぶのは、ＡＡＲＣのセカンド・パイロット、スティーブ・バージ。
前日、ハンナ・レイチェルが獲得した、最速タイムを奪い取る為に。又、ＡＡＲＣのＮｏ．１の地位を賭けて、２人のパイロットは、炎のような闘志を秘めて舞い上がる。
第１ヒート開始。
第１組から、ぴったり５秒遅らせて、飛燕とスティーブはコースイン。
チームメイトとは言え、いや、チームメイトだからこそ、２人は激しく争う。
機体のポテンシャルは、ほぼ互角。
但し、運動性と急降下速度に関しては「飛燕」が勝り、高速安定性と、大馬力にモノを言わせた機動力では、Ｐ−３８が優位に立つ。
コンバットステージの長いストレートまでは、スティーブがリード。しかし、東Ｔ．Ｓに入るやいなや、飛燕はスティーブをかわし、今度は、飛燕がスティーブを引き離しにかかる。スティーブも懸命に食い下がるのだが、少しずつ離されていく。
「――速いっ！」
海洋博記念公園内のアクアポリス上の第２ステージで、予選を観戦していた西と河原を驚かせた程のスピードだった。
「奴等、勝負に出たな。今回のタイムアタックで、一気にタイムを出してくるぞ」
その河原の予感的中。
４０ｋｍの東Ｔ．Ｓにおける飛燕の区間タイムは実に４分４２秒０５。平均速度は５４８．９km/hと言うとんでもない記録を残した。
スティーブは、この区間タイムだけで飛燕に１．７秒遅れた。
続く伊江の高速コーナーで、その差を挽回すべく、スティーブは懸命の追撃をかける。
が、乗りに乗った飛燕には対抗しようもなかった。
飛燕は西Ｔ．Ｓで第１組のノースロップのロナルド・マースとＵＳＡＦのチャールズ・リードをあっさりとパス。もう、飛燕の速さには誰も手がつけられない。
結局、飛燕はスティーブを２秒余りも引き離して、独走体勢でコントロールラインを通過した。
飛燕のラップタイム、１４分４９秒４０。
前日のハンナ・レイチェルのタイムを０．９６秒凌ぐ、文句なしのベストタイム。ポールポジションを、ぐっと手元に引き寄せた。
この事を聞いたハンナ・レイチェルは血相を変え、椅子を蹴り倒して愛機に向かった、と言う。
スティーブ・バージは１４分５１秒７５のラップタイムを記録。現在のポジションは６番手である。
飛燕にベストタイムを奪われて頭に来ているハンナ・レイチェルの、今日１回目のタイムアタックは、午前中第３ヒートの第３組。一緒に飛ぶのは、事もあろうにＭＡＣ・キー８３。
その組合せが発表になった時、真樹子はさすがに幻滅した。
（・・・最悪）
正直な所、そう思った。
「飛烏さん」翔に対しても、真樹子は心配そうな表情を隠せない。「どうやら、ハンナさんも大分熱くなっているみたいだし・・・ムキになっちゃ駄目ですよ」
「・・・熱くなるな、と言うのは無理な相談だぜ」
この時、翔は既に真樹子の忠告など受入られる杭態ではなかった。こうなると、翔にブレーキをかけるのが役目の真樹子なのだが、ちょっと手に負えない。
（飛烏さんも、これさえなきゃ文句ないんだけどなあ・・・）
真樹子は半ば諦めている。しかし、その気持ちに少々の苛立ちが混じるのは、これ程までに翔の心に深く食い込んでいる、ハンナ・レイチェルと言う女性の存在に我慢がならない部分があるからだ。
不安。焦燥。そして、プライドを傷つけられた怒りと、苛立ち。様々な感情の交錯する中、予選第３ヒート、スタート。
５秒間隔でコースインする、その最終組。ＭＡＣ、翔／真樹子組と、ジェネラルダイナミックス、ハンナ・レイチェル。
機体をコンパクトにまとめ、トータルバランスの高さが特徴のＨｅ１００と、レーサーとしては大柄な機体でハイパワーを売り物にするキー８３。２機の対照的なレーサーは全力でコースに突っ込んでいく。
コースインしたのは、ハンナの方が僅かに早かったが、翔は最初のコーナーで早くも強引なアタックをかけてリードを奪う。
そして、コンバットステージのロングストレート。前をもたもた飛んでいた第２組のプライベーターのシーフューリーを蹴散らし、２機はそのありったけのパワーを空に叩きつけるようにして、飛ぶ。
このストレートで、翔は７７０km/hの最高速度をマーク。それにハンナ・レイチェルがぴたりとテール・トウ・ノーズで続く。
（・・・くそっ、離れやしねえっ！）
翔の焦りが苛立ちに変わり、そして、その苛立ちが自分自身を見失わせる。
「マキ、ＬＯＩ使うぞ」
「駄目！」
「この・・・くそっ！」
翔は爆発寸前だ。真樹子は冷静さを取り繕ってはいたが、内心、もう、どうしてよいか判らずにおろおろするばかりだった。
名護湾のターン。そして東Ｔ．Ｓヘ。
爆発寸前にまで熱くなりながらも、この時の翔は抜群に冴えていた。キー８３を思うがままに振り回し、猛烈なスピードでコーナーを次々にクリアしていく。
だが、その速さは、極めて危ない領域に踏み込んだ上での速さでしかない事を、真樹子は理解していた。過去、幾度となくハンナと競り含って自滅したのが、このパターンだった。
（駄目。このままじゃ・・・）
その事を理解していながらも、真樹子は、どうやって翔にブレーキをかけたらいいものかが判らない。真樹子は、そんな自分に、そして、翔に苛立ち始めた。
「マキ、ＬＯＩ！」
幾度となくＬＯＩを要求する翔に、真樹子はうんざりし、腹立たしい思いさえ抱き始めていた。それが、真樹子の苛立ちとも重なって、２人の絶妙なコンビネーションの間に隙間風を吹き込む。
（飛鳥さんは、あれの危険さが判っていないんだからっ！）
そして、第２ステージ前。
翔は強引にＬＯＩをＯＮ。だが、本来、シビアな性質のＬＯＩである。真樹子がきめ細かにエンジンコントロールを行わなければ、その本来のポテンシャルは発揮出来ない。
それでも翔は使った。
それが、真樹子の感情を怒りへと変える。
真樹子は、コントロールを翔から引ったくった。ＬＯＩをカットする。しかし、そのタイミングは少しばかり悪かった。
機体の限界まで攻め込んだ状態での飛行中である。ぎりぎりの所で辛うじて保っていたバランスを崩すには、それで充分だった。
キー８３は大きく姿勢を崩してコースアウト。運悪く、目の前にバルーンがあった。
心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖の中で、咄嵯に真樹子がコントロールを翔に返したのは、まだ翔を信じていた証拠だろう。事実、翔は片翼でバルーンを切り裂きはしたものの、バルーンにモロに衝突する事だけは避けた。
「――このボケッ！何しやがるっ！」
翔が我を失って喚き、真樹子も負けじと言い返す。
「馬鹿っ、もう知らないから！」
２人の関係が、これ程までに悪化した事はない。これではもう共に飛ぶ事は出来なかった。翔は、呼吸を整えるとタイムアタックを切り上げて飛行場に向かう。
翔も当然腹を立てていたが、真樹子の立腹はそれ以上のものがあった。真樹子は珍しい位に不貞腐れ、それ以上口すらきこうとしなかった。ＩＣＳすら一方的に切ってしまった程だ。
（もう、こんなのって嫌っ！）
真樹子はコース図をコンソールに叩きつけた。情け無さに涙が出て来る。あまりにも簡単に自制を失った翔が、そんな翔を抑え込めなかった自分が情け無かった。
そして。
何よりも、大切に積み上げてここまで来た２人の信頼問係が、あっと言う間に崩れ去った事が、何よりも情け無くて真樹子は涙を零した。
真樹子が不貞腐れて何もしようとしないので、翔は自ら針路を定め、嘉手納コントロールへ着陸をリクエストする。大した手間ではないのだが、それだけの事が腹立たしい思いを翔に感じさせる。
そして、着陸。
ここで翔は考えられないようなミスをした。
真樹子と２人がかりで機体を操る事に慣れた翔が、うっかりフラップを下げるのを忘れたのだ。
その桔果、引き起こしのタイミングを完全に誤り、あっと思った時にはキー８３は機首をやや下げた姿勢のまま接地した。
通常より大きな接地のショックで、主脚ストラットはフルボトムし、プロペラがコンクリートを叩いて砕けた。
キー８３は安定を失い、滑走路上を横滑り。が、翔の熟練したテクニックと、嘉手納の広い滑走路が、キー８３を致命的な状況から救った。
翔は、なんとかその状からキー８３を無事に止めはした。しかし、その時既に、スペアのない大事な６翅プロペラは先瑞３０ｃｍ程が砕け散って、使いものにならなくなっていた。
大井が苦労して作りあげた、その６翅プロペラなくしては、キー８３とて自慢の７５００hpもの大馬力を活かす事が出来ない。ＭＡＣにとって、そのダメージは大きかった。
しかし。
それよりも、もっと大切なものを失った事の方が、ＭＡＣにとって痛手となった。
大切なもの。それは、翔と真樹子の間に固く結ばれた相互信頼の辞に裏打ちされた、２人の織り成す絶妙のコンビネーション。
それは、ＭＡＣにとって、最大の武器になる筈のものだった。
第３ヒートにて、ハンナ・レイチェルは１４分４９秒７０を記録。自己のベストラップを０．６３秒詰めたが、それでも飛燕に０．３３秒及ばず、依然セカンドポジションにある事は変わらなかった。
「――すげえ・・・やっぱり陽はバケモンだよ。ダントツの速さだぜ」第３ヒートの公式計時結果を聞いて、西は呆れたように言った。「あのハンナ・レイチェルが、あれ程ムキになってカッ飛んでいったのに勝てないんだからな」
「まあな」河原も、その事は認めた。溜息をつく。「――大番狂わせだぜ。あんなバケモンが出て来るなんてさ。ＡＡＲＣも、とんでもない隠しダマを持っていたもんだ。
それ以外にも、星野は事故っちゃったけど、ハンナ・レイチェル、飛鳥翔と、Ｃ１初挑戦の奴等が、揃いも揃ってここまでやってくれるとはね・・・俺だって思ってもみなかったよ」
「あ、飛鳥って言えばさ、先刻は彼、どうしたんだろう？いきなりバランスを崩したらバルーンに突っ込んじまったけど・・・」
「ああ。あれか」河原は額いた。「確かに妙な突っ込み方だったな。あれさえなきゃ、確実に５０秒台のタイムが出たろうに」
「５０秒？」西はあっけにとられたような表情をした。「――あの、大きなキー８３でか？」
「出たさ」河原は事も無げに断言した。「なにしろ、あの、東テクニカルコースまでハンナ・レイチェルをリードしていたんだぜ。飛鳥も並の腕じゃないさ」
「そりゃそうだけどさ・・・」
「ま、Ｃ２でもハンナ・レイチェルと競り含うと自滅するのは、飛鳥の悪い癖だったからなぁ。そいつが、まだ直っていないのかもしれない――が、或いは・・・」
「あるいは？」
「いや――ちょっと変な予感がしたんだけど、さ」
（あいつら、空中で仲違いでも起こしたんじゃないだろうな〉
――まさかな、と、河原はすぐに思い直し、その考えを口にはしなかった。が、それが正解に近いなどとは、その時の河原は思いもしなかった。
ピットエリアに戻ったキー８３の周辺には重苦しい空気がまとわりついていた。
空で何が起きたのかを知らない地上のクルー達も、翔と真樹子がここまで不機嫌さを露にしていれば、何かあったな、とは想像する。
それも、翔はともかく、真樹子までが、滅多に見せない険しい表情を見せているのだ。 ――何か、かなり悪い事があった・・・と、言葉にはしなくとも、深刻な状況が、ピット内の人間に伝染していく。
無言のままで、ざっとチェックを済ませて引き揚げようとする翔の背中に、真樹子は声をかけた。
一瞬、ぴたりと動きを止めた翔がゆっくりと振り返る――と。
真樹子のしなやかな上体が弓のようにしなり、次の瞬間、小さいが充分にスピードを乗せた拳が、翔の頬にモロに叩き込まれた。
さすがの翔も不意の一撃によろめく。
畳み掛けるように言いたい事を全て言わせて貰うつもりだった真樹子だが、翔の表情が変わるのを見て、ぎくり、として言葉を呑んだ。
（あ。飛鳥さん、怒った・・・！）
と、思う間も与えず、翔のパンチが繰り出され、真樹子の耳をかすめて止まった。
翔が本気で放った一撃だった事は、軽くかすめただけだったのに、真樹子は耳に鋭い痛みを感じた事からも明らかだった。もし、まともにヒットしていたら、真樹子は顔面を漬れてノックアウトされていただろう。
恫喝じみた翔の態度だったが、真樹子はひるまなかった。
翔の拳を振り払うようにして押し返し、真樹子は翔の顔を正面から見据えて言う。
「意気地なし!!」
言葉が固体となって叩きつけられるようなその迫力に、翔もさすがに表情を変えた。
「プレッシャーに弱いだなんて格好つけて、本当は負けるのが怖いだけなんでしょ！負けるのが怖いから、あんな無茶ばかりしてっ、自分の弱さにも勝てないのに、人に勝てる訳なんてないじゃない!!」
痛烈な真樹子の言葉を受け止め、翔の顔色は見る間に失われていった。やがて、翔は項垂れて真樹子に背を向けた。
「――飛烏さん、待って！」
慌てて引き止めようとする真樹子の手を、翔は無言で振り払った。
「馬鹿っ！」半ば涙声で真樹子は怒声を放った。「もう知らない！あなたのコ・パイなんて、あたし、もうやめちゃうからねっ！」
と、言い捨てて真樹子は身を翻した。
その後で、翔は茫然と立ち尽くした。
殴られた頬か熱い。口の中がどこか切れたらしく、血の味がした。
――真樹子の気持ちは、それこそ痛い位に判る。が、判っていて、それでもそれを素直に受け入れる事が出来ない。
そんな自分に対する苛立ちが真樹子にあんな八つ当りをさせた，素直になれない自分が恥ずかしく、又、そこまで判っていても、まだ素直になれない自分がもどかしい。
そんな翔を見兼ねて、中島が声をかける。
「――飛鳥さん・・・」
「悪いが、ひとりにしてくれ」
「でも――」
と、言いかけた中島に、翔は語気荒く吐き捨てる。
「黙れよ。先刻は、相手がマキだったから、あれで済ませた。お前だったら、顔面に叩き込むぞ」
絶句した中島に背を向けた翔の後姿が、その時、いつになく孤独に見えた。