| ＰＡＲＴ ２４ 黄昏 | |
南国の夏の遅い夕暮れが嘉手納飛行場を包もうとしていた。
日中、強烈な光と熱をまんべんなく降り注いだ太陽も、西の空に低くなる頃になると、ぐっと大人しくなる。
蜂蜜のような黄金色の陽射しが、ねっとりと絡み付くように辺りを満たし始める頃、深雪は、マクダネルダグラスのピットエリアにいた。
不安と期待が、深雪の胸を壊れそうになる程に高ぶらせていた。身体が熱く、呼吸が苦しい。
深雪は、自分自身を落ち着かせようとして、又、息苦しさに耐え兼ねたかのように、深呼吸をひとつすると、足を踏み出した。
深雪の目指す方向に、工藤隼人がいた。
工藤は、「震電」と対話するかのように、ひとりチェックを行っていた。その工藤に、深雪は、ありったけの勇気を振り絞って声をかけた。
工藤は、声をかけて来た、目前のほっそりとした少女に、訝るような視線を向けた。――何所かで会ったような気はするけど、誰だっけ？とでも言うような表情をする。
「あの・・・」私の事なんか全然頭にないのかしら、と、ちょっと失望をしつつ、深雪は取りあえず名乗ろうとした。「私――」
が。
「ええと、君、確か――」
と、工藤が口を開いたので、深雪は慌てて口を噤んだ。――私の事、知っていて欲しい、と願うように思う。
「――ＨＡＲＴの星野さん、だよね」
――よかった。名前、覚えていてくれた。ただ、それだけの事が嬉しくて、深雪は微笑した。
「僕に、何か？」
と、工藤は訊いた。半ば職業的となっている爽やかな笑顔を見せる。
深雪は、もうまともに工藤の顔を見る事が出来なかった。極度の緊張に、膝が震えてくるのを抑えられない。真っ赤になって俯き、それでも深雪は、手にしていた封筒を工藤に差し出す。
こう言う場面には慣れている工藤ではあったが、深雪の純情ぶりには新鮮さを感じた。
尤も、今時ラブレターで告白なんて、高校生でもやらないぞ、と少々呆れはしたが。
工藤は、取り合えず封筒を受け取ると、深雪が顔を伏せているのをいい事に、深雪を値踏みするような視線で眺め回した。
――小柄でスレンダーな肢体。やや線の細い感じはあるが、バランスのとれたプロポーションは悪くない。控え目で地味だから目立たないが、整った顔立ちは十人並み以上の器量よしと言えるだろう。
いかにも大人しそうで、奥ゆかしい物腰が工藤をそそったが、その純情ぶりがひっかかった。ちょっと気安く遊んで後腐れなし、と言う訳には、いかないだろうな、と、考える――この辺の考えは、いかにも遊び慣れている工藤らしい所である――ちょっと気の毒だけど、ふってしまおう、と、言う結論に達するまで、さして時間を必要としなかった。
工藤は深雪の手をとった。深雪はどきりとして、工藤の顔を見詰める。
「――悪いけど・・・」
と、工藤がそこまて言った所で、深雪は既に判ってしまった。自分が受け入れて貰えなかった事を。
――陽気で社交的な工藤と、地味で内向的な自分では上手くいく筈がない、と、やや自虐的な考えの上で、悲観的予想をある程度は立てていた深雪だけに、こうなるのも当然と言えば当然、と理性は冷静に受け止める事が出来た。しかし、理性を押し退けて、深雪をここまで行動させた感情が収まらない。その意味で、ショックは決して少なくなかった。
「・・・これは受け取れないな」
と、工藤が深雪の手に封筒をそっと握らせたのを、深雪はまるで他人事のように感じていた。
――なんでですか。と言う言葉が口から出かかったが、深雪は意志の力でそれを抑えた。理由を聞いても更に落ち込むだけだろう、と、判断したのだ。
唇を噛んで、弾けそうな感情を健気に抑え込む深雪に、さすがに工藤も心が痛んだらしい。言い訳をするように、工藤は言った。
「・・・今の僕は、君の気持ちに応える事が出来ない」
これ程の台詞をぬけぬけと言ってのける所が、工藤の凄い所ではある。
「今の僕には、空だけが全てさ・・・金米チャンピオンシップと、世界選手権、その２つのタイトルを手に入れる。それ以外の事はなしだ。そんな余裕はない」
もし、深雪が持ち前の冷静さと情報処理能力を１００％保持していたとしたら、今の工藤の言葉の嘘に即座に気付く筈だ。だが、今の深雪には、工藤の言葉ならどんな嘘でも通用した。
「・・・そう・・・そうですよね」
小さく震える声で、深雪は、自分自身を納得させるように言った。
――工藤の世界に、自分が割り込む余地が本当にないのか。
その事を確かめる気も、そこに自分を割り込ませて欲しいと、これ以上求める事も深雪はしなかった。
工藤さんが、私を邪魔に感じるようなら、その前からさっさと消えてしまおう。
自分の感情より、工藤の気持ちを大切に考える辺り、深雪は、まだ純枠で、そして強かった。
「ごめんなさい。我侭な事言って・・・」
半ば演技だったが、吹っ切れたように言って笑顔を見せたのは、工藤の重荷になりたくない、との一心からだった。
悪魔のように冷静な天才パイロット・星野深雪も、こんな時には、ひたむきに恋するひとりの少女に過ぎない。
「・・・それじゃ」
と、言い置いて、深雪は身を翻した。
足早にマクダネルダグラスのピットから離れ、いつの間にか深雪は走り出していた。
泣くかな、と冷静に自分を観察して見たが、不思議に涙は零れなかった。頬を伝う液体は汗に違いない。
走り続けて、気がつくと、深雪は飛行場の西の外れにまで来ていた。一面に芝生の植えられた地面を盛り上げる、地下燃科タンクの上に駆け上がる。
一気に視界が開けた。
飛行場のフェンスの外はすぐに海辺だった。海面を一面の橙色に染め上げて、燃え上が
る太陽が水平線の向こうに沈んでいく。
さながら映画のラストシーンのように出来通ぎたその光景を、深雪は無感動に眺めた。
風が心地好く感じられる時間になった。
Ｔシャツの背中の汗がいつの間にか乾き始めている。
（こんな空の色、好きだな）
空を見上げ、飛燕は思う。見上げた空は、日中の鮮やか過ぎる青からはやや紫に歩み寄り、涼しげで、でも、どこか暖かみのある微妙な表情を見せている。
その空に、飛燕は幾つもの星を数える事が出来た。普通の視力ではせいぜい宵の明星と言われる金星を見付けるのがやっと、と言う明るさである。尤も、飛燕の鋭過ぎる視力は日中の空からすら星を見出せる程なのだが。
黄昏の一時を素敵な風景に会う為に使うべく、飛燕は海の見える飛行場西へ向かった。
そこで飛燕は芝生で覆われた土饅頭――と、飛燕は思った――の上の深雪を見付けた。
感動は、誰かと共有した方がより大きくなるものだ。飛燕は、ためらわずに深雪に歩み寄った。
海を眺めている、と見えた深雪だったが、実の所、内心のショックに放心状態になっているだけだった。前方に向けている瞳には何も映っていない。
そんな深雪の横に、飛燕は腰を下ろした。
深雪の様子がおかしいのに飛燕はすぐに気付いた。
「・・・どうしたの？――変だよ、ちょっと」
と、飛燕は訊いた。
「え」漸く飛燕の存在に気付いたかのように、深雪は、はっとして顔を上げ、そしてすぐに伏せた。「・・・何でもないんです」
「嘘ついたって判るよ。何があったのさ？」
「何でもないんです」
深雪は意固地になっていた。口にしたら泣けてきそうで、又、涙を見せるのが嫌だったのだ。
「言いなさいよ」
「だから・・・何でもないんです」
深雪は同じ答えを操り返して言うばかりだった。が、それでも放っておけないのが、飛燕の性格である。
――尤も、飛燕は、この時、既に深雪の落ち込んでいる原因に、およそ思い当たってはいた。
（フラれたな・・・工藤に）
それ以外に、気丈な深雪がここまで落ち込む原因は思いつかない飛燕だった。
「・・・判った。それじゃ、もう何も聞かない――好きにすればいいわ」
と、突き放すように言って海を見詰める。
案の定、そうすると深雪は自分から口を開いた。
「・・・あの・・・私の、愚痴を聞いて貰えますか？」
と、深雪はおずおずと訊いた。飛燕が頷くと、深雪は堰が切れたかのように一気に言葉を吐き出した。
「私、って我侭だから・・・つい、あの人に無理なお願いして――夢を追いかけて行く、あの人が好きだったのに、それなのに、私の方を見て欲しい、なんて思って・・・あの人の邪魔になんか、なりたくなかったのに・・・」
ああ、やっぱりね、と思いながら、飛は深雪の初心さと純粋さに感心した。
――飛燕は、工藤と言う男自体、それ程の男とは思っていない。かなりのプレイボーイと言う話で、スキャンダラスな噂も幾つか耳にした事がある。
だが、その事を深雪に告げようとも思わない。判る時が来れば判るだろうし、今の深雪に、これ以上のショックを与える必要もない。
「私・・・」
深雪は究然、言葉を詰まらせた。顔を伏せる。薄い肩の辺りが小刻みに震えるのが痛々しかった。
「――泣いちゃいなよ。我慢しないで」と、飛燕は優しく言って、深雪の肩に手をかけた。「こんな時は、泣いた方が楽だからさ・・・あたし、馬鹿だから、何言っていいか判らないけど、胸位なら貸してあげられるから」
顔を上げた深雪は既に目に一杯の涙を溜めていた。飛燕の言葉に、抑えていた感情が弾けたかのように、深雪は一気に泣き出した。
華奪な外見からは想像もつかない程のシンの強さを持つ深雪だが、それ故に、折れるとなると、一気に弱さを曝け出す。
深雪は、飛燕こ縋りつき、ただ、ひたすらに泣きじゃくった。
その姿には、いつもの深雪が持っている気丈さも、衿持もなかった。
飛燕は、深雪の肩に手を回し、宥めるように、慰めるように優しく撫でる。
夕陽は漸く水平線の下へ沈み、辺りを夕闇が包み始めた。迫る闇の中に、街の明かりと滑走路のランディングライトが浮かび上がる。
そして、完全に辺りが暗くなるまで、飛燕は深雪の肩を抱いてやっていた。
白く滑らかな素肌の上を、熱い水滴か跳ね、身体を暖めながら流れ落ちて行く。
ホテルのバスルームにて、飛燕は熱い湯を使ってシャワーを浴びていた。
――長い１日だったな、と思う。出来る事なら、日本式の風呂で、のびのびと身体を伸ばして湯につかりたい所だが、ホテルの洋式バスではそれは望めない。かと言って、銭湯に行くのは、さすがに面倒に感じる飛燕だった。
昼間の疲れが、四肢に、重く気怠い倦怠感となって残っている。これが、明日になれば痛みに変わる。その痛みを和らげる為には、身体を暖めてのマッサージと充分な休養が必要だった。
身長１６６cm、体重５４kgの贅肉ひとつない引き締まった肢体が濡れて輝く様は、まるで若鮎のようだ。
鍛え上げられた四肢は、男のそれのように、グロテスクなまでに筋肉の存在を主張する事をせず、男勝りのパワーを秘めた筋肉は、優美なラインの下に隠されている。
すっきりとしたプロポーションは美しいが、スタミナを考えるとあと２〜３kgは体重が欲しい所ではある。
飛燕はバスルームから出た。黒いバスタオルを一枚、素肌に巻きつけただけの格好だが、ピンクに染まった白い肌に、黒のバスタオルが強烈なコントラストを示し、妖艶と言える程の雰囲気を作る。
飛燕の肌は白い。
本当に色白だと殆ど日に焼けない事がある。飛燕の肌が、正にそう言う肌だった。日中、強い陽射しを浴びた肌は、シャワーで暖められたせいもあって、今は、ほんのりと赤くなっている。が、明日にはそれも収まり、数日で元に戻ってしまう。
飛燕の部屋はホテル最上階の豪華なスイートルームだった。大きなダブルベットのあるベッドルームと、充分に広いリビングルームがあった。
窓からの景色は最高で、単純に高くて見晴らしのいい所が好きな飛燕は、それだけでこの部屋を気に入ってしまった程だ。
飛燕は、その部屋をひとりで使う。とにかくいい部屋を、と言う飛鳥の指示でこうなったのだが、俗に”ウサギ小屋”と酷評される典型的な日本家屋に育った飛燕にしてみれば正直な所、その広さは持て余し気味である。
飛燕は、リビングルームのソファの肘掛けに腰をひっかけ、テーブルの上から青いライムの実を取り、ポケットナイフで半割りにした。それから、シャワーを浴びる前に作っておいたジンライムのグラスを手にする。
たっぷりと氷を入れたグラスは、びっしりと露を浮かべていた。ライムグリーンも鮮やかなグラスの中に、飛燕は切ったばかりのライムを絞り込む。
刺激的な匂いが漂い、飛燕は思わず口の中に湧いた唾を飲み込む。手にしたライムの半欠けをちょっと噛り、
「すっぱ・・・！」
と呟いて顔をしかめる。
爽やかなライムの香りがするグラスに口をつける。冷たい口当りが、熱く火照った身体に心地好い。甘酸っぱいライムジユースの味わいが口内に広がり、その一瞬後に、ジンのアルコールが舌を刺激し、喉から腹へと熱さを滲ませるようにしながら降りて行く。
――旨い。
疲れた身体に染み渡るようにアルコールが回っていく。
エアレーサーとして成功したいのなら、酒と男と煙草はやめとけ、と飛鳥に言われたのを思い出したが、これだけはやめられそうにないな、と飛燕は思った。
グラスを手にしたまま、飛燕は窓辺へと歩み寄った。
レースのカーテンをさっと引くと、沖縄の夜景が広がる。
街中の喧騒もここへは届かない。見下ろす夜の街は様々な光の集まりだった。
――あたしも、あんな街中で蠢くチンピラだった時もあった。が、誰よりも速くなりたい、と、それだけを想い、ここまで走って来た。
今、その目標は手を伸ばせば届く所にある。先の事は判らない。今はただ、突っ走るだけだ。
ゴール目指して、脇目も振らずに一気に駆け抜ける――あたしは、スプリンターだ。
今までも、そうして生きて来た。その生き方を、今更変える訳にはいかなかった。
もう立ち止まるのは真っ平だった。
この命、果てる時まで。最後のゴールまで走り続けていたい。
――世界中から集まった、３９人のパイロット達。その誰もが望む、唯一のゴール、コンバットエアレース世界選手権、優勝。
その年における、誰よりも速いパイロットに与えられる栄光の座を勝ち取る為の、選び抜かれたパイロット達の戦いが、いよいよ明日、始まる。
（・・・戦闘開始、だ）
飛燕の瞳が、熱く輝き始めた。