ＰＡＲＴ ２３ ＢＡＴＴＬＥ
飛燕に対するルーキーテストを前に、レイモンドは標的機を全機着陸させた。
機体チェックと簡単な整備、そして、燃料量の調整を実施――言う迄もなく、機のコンディションをベストにする為だ――その間に、標的機パイロットを集めてミーティングが行われる。
「――いいか、あいつに対してはやり方を変える。まず、１番から１０番が同時にかかれ。それから後の突入タイミングは俺が指示する。制限時間は、あいつに対しては無しだ。各自、存分にやれ。いいな？」
と、言ったレイモンドに、標的機パイロットのひとりが反論をする。
「そんな・・・明らかなルール違反じゃないですか。テストになりませんよ」
「こいつはテストなんかじゃねえ。こいつはな、バトルなんだ」と、レイモンドは断言した。「――あいつに対しては、高度制限も無しだ。事と次第によっては、あいつを海に叩き墜してもかまわん」
――本気でやる気だ。
レイモンドの気迫が、その強い意志を標的機パイロット達に伝えていく。
「あいつのプライドが身不相応なものなら、叩き潰してやる。もし、本物なら・・・」レイモンドは一旦、言葉を止めた。「・・・俺達は負ける。そうしたら、俺はあいつに謝らなきゃならない」
その可能性は半々だ。と、レイモンドは思っている。なにしろ、あの飛鳥がＡＡＲＣのエースの座を与えた女だ。只者の筈がない。
（それにしても、俺の売った喧嘩を買ってくれるとはな）
その事を思うと、レイモンドは久々に血が沸くのを覚えた。
いつものようにテストをするのではなく、全力を以て戦う。戦う事が出来る。その事が堪らなく嬉しかった。願わくば、あいつが、陽飛燕が戦うに足りる相手であって欲しい、と思う。
最後にレイモンドは思い出したように付け加える。
「ケビン、お前、昨夜あいつともめたらしいな」レイモンドはにやりとした。「お前には、一騎討でやらせてやる・・・負けるなよ」
「――おい、やっぱりだぜ。お前、袋叩きにされるぞ」
と、下村は真顔で飛燕に忠告した。
「は！」飛燕は別に動じた様子もない。「昨日のあれ、まだ根に持ってる、ってえの？・・・執念深いなあ」
「その位じゃないと戦闘機乗りは務まらん」
「ま、望む所だけどね」
「おい、お前・・・」これには、さすがの下村もびっくりした表情を隠せない。「正気か？３０対１なんだぞ。やれるのかよ」
「まあね」笑顔を見せ、飛燕は自信たっぷりに断言した。「見ててね。全部墜とすつもりでやるから」
「こいつは一波乱あるぞ――何か起きそうな雰囲気だ」
ＡＡＲＣの駐機スポットで西と出くわした河原は、飛行場に満ち始めた、ただならぬ空気をそう表現した。
地上でスタンバイする標的機の群れ。そして、「飛燕」。
全機、エンジンは停止している。観客のざわめきも遠慮勝ちになり、そのざわめきも風が運び去っていく。
嵐の前の静けさ。
正に、その言葉通りの状態だった。
「あいつ・・・陽さ、咋夜レイモンドに喧嘩売ったんだと」
と、河原は言った。
「いい度胸だな」西は相槌を打ち、それから先程会った飛燕を思い浮かべて、あいつな有り得ない話じゃないな、と思った。「――で、どんな風に？」
「誰にも負けない、とね、見栄を切ったらしい。で、レイモンドの方も意地になって、何か何でも墜としてやる、ってさ」
「大人気ないなあ」
西が率直な意見を述べ、河原も苦笑して頷いた。
「――ま、ただのテストにはなりそうもないな」
それから間も無く。
３０機の標的機がエンジン・スタート。
飛行場は轟々と響きわたるエキゾーストノートの渦に呑み込まれる。
それから僅かに遅れ、「飛燕」、始動。
レイモンドのＰ−５１が動き出す。そ後に標的機が続々と続く。
レイモンドは意識的に待機する「飛燕」の前を通ってタキシング。飛燕の目と鼻の先だ。
が、コックピットから上体を乗り出した飛燕に動じた様子はない。プロペラ後流に黒髪をなびかせ、静かな笑みさえ浮かべて目前を通り過ぎる標的機を見送る。
「お前・・・何、笑ってるんだよ」
飛燕の笑顔に、さすがにびっくりしたかのように下村は訊いた。
「もう、嬉しくって。テストを受けるのが待ち遠しいな」
平然と答えた、その言葉通りに、飛燕は嬉しくて仕方ない。
３０機揃った標的機は確かに手強い相手だ。相手にとって不足はない。それは判っている。だからこそ、飛燕はその事が嬉しかった。
「――いい気持よ。ノッているのが自分でも判る・・・今なら、どんな奴にだって、負ける気がしない」
未だかつて、これ程に大胆不敵な台詞を吐いてテストに臨んだルーキーもいないであろう。
その時、飛燕の瞳は熱く輝き、眼光は触れれば切れそうな位に鋭く、下村ですら思わず目を逸らしてしまいそうになる程の殺気を発散させていた――正に”大空のサムライ”の面構えだった。
離陸のサインが出た。
「――出るよっ！」
飛燕が、その特徴的な、ちょっとしゃがれたカン高い声を張り上げる。
車輪止めが外され、「飛燕」が待ち兼ねていたかのように飛び出し、走り出す。
飛燕はコックピットから身を乗り出し、ピットに残るメカニックに、そして観客に手を振る――その姿をエプロンから遠望した深雪は、ふと思う。
（ああ言う派手さが人気を集めるんでしょうね・・・私には出来ないけど）
タキシングにおける制限速度は５０km/h。だが、飛燕は平然とそれを破る。スロットルの加減によっては尾輪が浮き上がり、逆にそれを利用してクイックにターンする飛燕に、驚きとも呆れもとれる声が上がる。
そして、離陸。
洋上、３０機の標的機が待ち受けるコンバットステージヘと向かう。
コンバットステージ。
高度３０００ft。飛燕は太陽を背に、６００km/hでコンバットステージに進入。
飛燕の優れた視力は即座に５機の標的機を捕捉した。１時の方向。距離１５km。高度差は５００、こちらが低い。
（違うな〉
ピン、と来た。
フェイントだ。後ろから来る――そう判断して、飛燕はエンジンに余力を残したスローダイブ。前方の標的機がかぶって来るが気にしない。
案の定、後方から１機突っ掛かって来た。
待ってましたとばかりに、飛燕は引き起こしつつロール、機首が９０度上がった辺りで後ろから来た標的機を前方にのめらせ、失速反転で切り返す。
あっと言う間に攻守が逆転、今度は飛燕が標的機に追撃をかける格好となった。
前方の５機の標的機が、慌ててカバーに入ろうとするが、そのタイミングは飛燕から見て失笑を催させる程、遅い。飛燕は、いとも容易にヒットを奪い、にやりとする。
（連係が甘い。編隊空戦の訓練をしてなきゃ、いくら数があったって・・・）
――いける。と、飛燕は踏んだ。
しかし、相手をナメてかかるのではない。呑んでかかる。大切な事は、決して相手を馬鹿にしない事だ。
漸く、５機の標的機が突っ込んで来る。
やっばり、まともなテストをやる気はないんだ。と、飛燕はその事を確認した――尤も、望む所だ、としか飛燕は思わない。
５機の標的機の内懐に自分から飛び込んで行く形で、飛燕は近接格闘戦を挑む。いくら飛燕でも１機ずつに一撃離脱をかけられては、ちょっとばかり面倒な事になるからだ。
飛燕の望むように乱戦になった。
いかに単機、しかもルーキーとは言え、天性の素質に激しい訓練で磨きをかけた飛燕にとって、５機程度の標的機を料理するなど造作もない。戦闘の主導権は完全に飛燕にあった。
吠えるエンジン。空を切り裂くベイパートレイル。
瞬く間に２機の標的機がヒットをとられ、白いスモークを引きつつ離脱する。
そこに、更に４機の標的機が突入。
飛燕は、ヒットをとられた標的機が引くスモークに紛れて回り込み、アタックをかける。――ヒット。これで４ポイント。
「奴に格闘戦を挑むなっ、ヒット＆アウェイで行け！」
と、レイモンドが指示を与えるものの、熱くなっている標的機パイロット達は「飛燕」から離れる事が出来ない。完全に飛燕に翻弄されていた。
５分経過時に、飛燕は既に８ポイントを得ていた。ダメージは依然、０。
９個目のポイントを狙い、飛燕はターゲットを追う。
思うままに応えるエンジン。自分の手足の如く自在に動く機体。握るスティックに血が通うような感覚。
正に、人機一体。飛燕はジュラルミンの翼を持つ１羽の猛禽と化して獲物を追う。
標的機をガンサイトレチクルの中心に迫い詰め、一撃で仕留める。
「――次はっ!?」
これで、９機、仕留めた。あと、まだ２１機と闘う事が出来る。そう思うと、ふっと笑みが零れた。
いい表情だった。もし、今の飛燕の表情を見たら、どんな男でも、まず、それだけで魅せられてしまうだろう。
瞳は己の力を開放する喜びに無邪気に輝き、口元にはぞくりとする程の妖しい微笑。色白の頬が内心の昂揚にほんのりと朱に染まり、肉感的な、ぽってりとした赤い唇を、ピンクの小さな舌がひらりと踊って濡らす。
闘う事を楽しんでいなければ、こう言う表情は出来ない。
闘う為に生れて来た、天性のファイター。
それが飛燕だった。
その、修羅の如き凄まじい闘いぶりに、標的機パイロットの中には脅えを見せる者さえいた。
そうした、逃げ腰になっている奴に用はない。飛燕は、立ち向かって来る標的機だけを相手にする。
１０分間で１６機の標的機がヒットをとられ、人々は飛燕の強さを見せつけられた。
それからすぐに、飛燕は１７機目を仕留めた。
――さあ、次！と、辺りを見回した飛燕は標的機が逃げ散っている事に気付いた。
そこヘ、正面から単機で突っ込んで来る機体があった。Ｆ８Ｆ「ベアキャット」。ケビン・ウィリアムズの機だ。
ヘッドオンでアタック。が、相対速度、実に１０００km/h以上でのアタックに命中は期待出来ない。次の瞬間にはキャノピー・トウ・キャノピーで擦れ違う。
飛燕にダメージはなかった。が、敢えて正面から勝員を挑んで来たパイロットの気迫は、飛燕にも充分に伝わった。
（サシでやろう、ってえの？嬉しいコトしてくれるじゃない）
飛燕、得意の降下旋回。ケビンは上昇、ロール・アウェイ運動にて反転。飛燕は一瞬、ケビン機を見失う。
ケビンは飛燕の７時方向に占位し、アタック。飛燕、切り返しつつ上昇してかわす。しかし、ケビンはハイヨーヨーにてオーバーシュートを防止し、再度アタック。
飛燕は、急激な引き起こしからラダーを使い、クイック・ロールにてケビンをやり過ごす。
（やるな。手強い）
冷や汗が出るのを感じながらも、飛燕は、闘い甲斐のある相手を得た事に満足して微笑した。
飛燕、ダッシュ、２撃までもかわされて、降下、離脱して行くケビンの５時方向に占位、追撃をかける。そして、アタック。が、距離が少し遠かった。命中しない。距離を詰め、リアタック。
だが、ケビンはこれもかわし、旋回、切り返して飛燕を前に押し出そうと機動する。飛燕も咄嗟に切り返して喰い下がる。
シザースになった。
双方共にフルパワーをかけ、相手の後尾につこうと機動を続ける。しかし、この勝負、ケビンが先に見切りをつけた。
ケビン、上昇して離脱を計る。飛燕、追尾して上昇。その事を知ったケビンは上昇し続けては捕まる、と判断、降下で逃げる。
だが、降下スピードだったら「飛燕」は文句なしに速い。しめた、と飛燕は思いつつ距離を保って追尾を続ける。その間、スロットルはスローにし、エンジンに余力を残しておく。
ケビンは飛燕を振り切れない事に苛立ち、左旋回。
これをチャンスと見て、飛燕はスロットル全開。間合いを一気に詰める。得意の左降下旋回からローヨーヨーを使い、ケビンの旋回円内をカット・オフ、ケビンの９時方向から一撃を加え、上昇離脱。
――ヒット。
白いスモークを引いて離脱して行くケビンのＦ８Ｆを振り向いた肩越しに認め、飛燕は微笑む。
闘い甲斐のある相手と闘って、倒した。その事が、飛燕の気分をよくさせる。その間も瞳は次の獲物を求めて空を睨み、四肢は次の闘いに備えて緊張を保っている。
今日は本当に乗れている。機を操る事が楽しくて仕様がない。エンジンのビートに身体が自然にリズムをとる。こうなると、もう計器なんか見る必要はない。必要な全てが、自然に、身体で判る。
４時方向から２機、１１時方向から３機、二手に別れて突っ込んでくる標的機。
（来たっ！）
締め付けられるような緊張感と共に、飛燕が堪らなく好きな瞬間がやってくる。
自信と誇りを持って、全カをぶつけられる仕事。しかも、僅かの隙も油断も許されない世界。そこから得られる充実感。その時、飛燕は実感する――あたしは、今、生きている、と――
「飛燕」が美しく舞い、標的機と交錯する。と、次の瞬間には早くも１機の標的機が白煙を引いて離脱していった。
更に２機を３０秒足らずで片付ける。残る２機は逃げ出した。飛燕のヒットポイントはこれで何と２１。
「――これ以上やらせるか！」
最後に飛燕を充分疲れさせてから闘おうとしていたレイモンドだが、こうなってはもう我慢出来ない。飛燕に１対１の勝負を挑む。
飛燕もレイモンド機に気付いた。
「・・・待ってました！」
激闘１０余分。だが、疲れなどまるで感じない。感じるのは、膨れ上がる闘志と、抑え切れない喜びだけ。
ついに最強の標的機パイロット、ジヤック・レイモンドと一戦交える事が出来るのだ。これが嬉しくて、飛燕はつい、声まで出して笑ってしまったものだ。
互いに相手の後尾を狙って水平面旋回。まずは、相手との間合いをとる。これは一種の様子見だ。
飛燕はタイミングを見計らって得意の降下旋回。降下でスピードを稼ぎ、レイモンド機の旋回内側をカット・オフして間合いを詰め、ダッシュ。必殺の一撃をかけた。
が、かわされた。
それも、紙一重で。
その事に気付いた時、飛燕は正直な所、ぞっとした。
大きくかわすだけなら誰にでも出来る。が、ぎりぎりまで相手を見た上で、紙一重でかわすと言うのは攻撃側の動きを完全に見切っていない限り出来る事ではない。
（さすが・・・凄い）
――腕はあっちの方が格段に上だろう、とは思った。が、負ける、なんてこれっぽっちも思わない。自分よりも強い相手から逃げていてはいつまで経っても強くなれない。強敵を打ち破ってこそ、咋日の自分より強くなる事が出来る。それが、炎のような闘争心に裏打ちされた飛燕の信念だった。
勢い余ってレイモンド機の前に飛び出した飛燕をレイモンドは逃がさない。
背後に喰いつかれた飛燕は、レイモンドにアタックのチャンスを与えずに、素早くロール、スプリットＳで降下、逃げる。しかし、この程度の機動ではレイモンドは振り切れない。
ハイＧバレルロール。そして急上昇。まだ振り切れない。上昇姿勢から、ロールをうち、インメルマンターン。機が水平になった途端に息もつかせずに一気にロール、そして急反転、急降下。「飛燕」ならではの猛烈な突っ込み加速。スピードメーターの指針が跳ね上がる。
７．５Ｇをかけて引き起こし、連続して７Ｇ左上昇旋回。Ｇに目が眩む。その時、ラダーを踏み込んだ左膝に震えが走った――限界が近い。飛燕は焦り始めた。
遂にオーバーシュートさせられたレイモンドは、潔く追撃を諦めると、体勢を整えるべくズーム上昇。
しかし、飛燕は追わない。
（一か八か、一発勝負！）
焦りが、飛燕に無謀とも思われる賭けをさせる事になった。
飛燕は緩い水平旋回に入った。そして、チャンスを窺う。
（誰めたのか？・・・あいつが）
まさかな、と思いながらもレイモンドはスティックを引き、Ｐ−５１を大きなループに入れた。そのループの背面姿勢にて「飛燕」の位置を確認したが、その体勢から有効なアタックが出来るとは思えない。レイモンドはループを継続した。
レイモンドはループの後半、機首が下がった所で機の向きを調整し、スロットルを大きく開けて加速をかけ、緩旋回する「飛燕」の６時方向へ降下。
ここで、飛燕は思い切った機動に出た。
飛燕は機首上げ姿勢から失速反転。レイモンドから見て１０時方向へ逃げ、機首をレイモンド機へ向ける。
これを苦し紛れの回避運動、とレイモンドは見た。Ａ．Ｏ６０度から、有効なアタックが出来る訳はない、と踏んだのだ。
失速反転で「飛燕」の機速は落ちているし、こちらの余剰エネルギーを活かし、バレルロールアタックで再度捕捉は容易だ、とレイモンドは判断した。
しかし、飛燕の考えは違っていた。
（擦れ違い様に一撃かける・・・チャンスはそれしかない！）
その事を、飛燕は殆ど本能的に悟っていた。
それにしてもＡ．Ｏ６０度からのアタックである。コンピューター制御のＦＣＳを装備するジェット戦闘機ならともかく、光学照準器ひとつが頼りのエアレーサーでは、命中させるのにはそれこそ神業が要求されよう。
飛燕は上昇、７００km/hで降下するレイモンド機の１０時方向からアタック。
レイモンド機の機影はＨＵＤには入らない。飛燕はカンを頼りにトリガーを押す。短く３連射。その後に、離脱の為に微かにスティックを引き、レイモンド機と擦れ違う。
これがヒット！
「――おい、嘘だろう!?」
ヒットをとられた当のレイモンドですら、咄嵯には信じられなかった。
（・・・奴は化け物だ。人間業じゃねえ）
レイモンドば思わず身震いした――世が世なら、歴史に残る撃墜王になる奴なのかも知れん。あいつは・・・とさえレイモンドは思った。
それから１分少々のうちに、飛燕は更に２機の標的機からヒットを奪い、そこで時間切れとなった。
飛燕の獲得したヒットポイントは、何と２４ポイントに達した。ダメージは勿論、０。
文句のつけようがないパーフェクトウィンである。
飛行場に戻った飛燕は、それこそ割れんばかりの拍手と。嵐のような歓声を一身に浴びた。
それに応えるかのように、飛燕はタキシングする「飛燕」のコックピットから身を乗り出し、高々と両手を挙げてガッツポーズ。
その姿は、正に戦いの女神の化身と言えた。事実、後になってジャーナリスト達はこの時の飛燕を”現代のアテナ”とも”ワルキューレの末娘”とも形容したものだ。
陽飛燕、２２歳。
この日、衝撃に近い鮮やかさで、彼女はその存在を人々の脳裏に刻み込んだ。その類い希なフライトセンスと、卓越したテクニックを駆使する彼女に、人々はこぞって”天才”の称号を与えた。
だが、世界最速を目指す飛燕の戦いは、今、漸く始まったばかりだった。
テストを終えて、レイモンドの飛燕に対する評価はまるで変わっていた。
小生意気な女、と言う見方は奇麗さっぱり消え去り、凄い奴だ、と、その実力を素直に認めるようになっていた。
「あいつを、第１次大戦の西部戦線上空に出撃させてみろ。それこそ、撃墜マークで機体が埋まるぜ」
――後日、飛燕の事を訊かれたレイモンドが答えた言葉がこれだった、と言う。
飛行場に戻ったレイモンドは、標的織パイロットのひとりが負け借しみを言うのを耳にした。
「これが実戦だったら、ああはいかないさ。あいつ、絶対に墜されてるよ」
実戦経験などない若いパイロットの言葉に、レイモンドはカッと来た。怒鳴りつける。
「馬鹿！これが実戦だったら、あそこまでやられる前に、手前ェら皆逃げ出してるだろうよ。負け惜しみを言うヒマがあったら、今度、彼女とやりあう時に少しはマシになってるように腕を磨いておけ」
そのパイロットは怒鳴りつけられて小さくなり、こそこそとレイモンドの前から退散した。
「まったく・・・」
と、呟いたレイモンドに幾人かのジャーナリストが群がった。質問を投げかける。
「今日のルーキーの中で、誰がＮｏ．１でしたか？」
「Ｎｏ．１か・・・」レイモンドはちょっと考えた。「テクニックだけを見れば星野の娘だろうな。だが、ファイター・パイロットとしてなら、俺は陽飛燕だと思う。彼女は凄い」
「凄い・・・と、言うと？」
「俺は君達のように、書いたり喋ったりするのか仕事じゃないんで、上手く言えないのは勘弁してくれ」と、冗談とも皮肉ともとれるような口調で前置きをしてから、レイモンドは言った。「――これは自慢じゃないが、俺はベトナムで実際に戦った事がある。やつらのミグを墜した事もあるし、逆に２３mmを喰った事もある・・・殺し合いだけどな、空戦だけは不思議と怖くなかった。自信があったからだな。今でも、自信はある。
だが、あいつだけは別だ。もし、本当に機銃を積んでやりあうんだったら、俺はあいつ――陽飛燕とだけはやりたくない。・・・こんな所で答えになったかい？」
これが、レイモンドの偽らざる心境だった。
「飛燕」のコックピットに収まったままでピットに戻った飛燕は、うるさいジャーナリストや観客の視線が、ここにはまだない事を確認すると、緊張を解いて力を抜いた。
口元には微かな笑みを浮かべてはいるものの、見る人が見れば、疲労の極みにある事は明白だった。
「おい、大丈夫か」
さすがに心配して、下村はコックピットに取り付いて訊いた。
「ああ・・・何ともない。いい気持よ」
と、飛燕は答えたが、それが虚勢に過ぎない事位、下村にはすぐ判る。――大体、あれだけ暴れまくっておいて堪えていない訳はないだろう。
「・・・あのな、俺にまで突っ張るんじゃねえの。素直に疲れたと言えよ」
言葉はともかく、下村は優しく言った。疲れが、飛燕にその優しさに甘える決断をさせる。
「ごめん」飛燕は、下村の好意に甘える自分に照れたような顔をした。「――あのね、膝に、かなり来てるの。ちょっと手を貸して」
飛燕は下村に半ば抱えられるようにして「飛燕」から降りた。
そこヘ、レイモンドがひょっこりと顔を出した。
飛燕は下村の手をすっと退けると、背筋をしゃんと伸ばしてレイモンドを迎える。その姿に、先程までの疲労の影すらない。――この精神力が飛燕の凄さだよな、と下村は内心、感嘆する。
「やあ、先刻は――」
――悪い事をした。と、レイモンドは詫びようとした。
が。
「ありがとうございました」と、飛燕は丁寧に礼を述べた。「御解で、いい勉強をさせて頂きました」
これで、レイモンドは謝るタイミングを完全に失ってしまった。
が、レイモンドにとって悪い気はしなかった。それどころか、この一言で、改めて飛燕に惚れ込んでしまった位だ。
「・・・お前なら、確かに誰にも負けないだろう。決勝でも頑張れよ」
飛燕とレイモンドはがっちりと握手を交わした。
そこヘ、更に標的機パイロットが，次々とやって来た。びっくりしたかのような、戸惑い勝ちの表情を隠せない飛燕に対し、彼等は口々に飛燕の腕前を褒め称え、健闘を祈る、と言う。
その中にケビン・ウィリアムズもいた。
「済まなかった、昨日は・・・」
と、謝るケビンに、飛燕はそんな事など全然気にしていなかったかのように、こだわりのない口調で言う。
「済んだコトよ。もう気にしないで。――それより、単機で挑んで来た『ベアキャット』、あなたでしょう？」
「・・・あ、ああ」
「手強かったよ。あたしに３回までアタックかけて来たの、あなただけじゃないかな」
ほんの先程、憎しみをぶつけて闘った相手に微笑みかけられて、ケビンは自分を恥ずかしく思った。そして、同時に飛燕の度量の大きさを知った。
（こいつには、かなわねぇな）
と、ケビンは思った。
標的機パイロット達とジャーナリストに囲まれた飛燕から、レイモンドは離れた。
そこで、レイモンドは、距離を置いて飛燕を見守る飛鳥と顔を合わせた。
「おい、飛鳥」と、レイモンドは飛鳥の肩を掴んで言った。「あいつ、完全にイカレていやがるぜ」
「そうか」と、飛鳥はレイモンドの言葉に満足したように笑い、頷いた。「そんなに、気に入ったか」
「まさか、誰があんなジャジャ馬を、と言いたい所だが・・・確かにな、ありゃあ凄い女だ」
「惚れたな？」
「馬鹿言うな」レイモンドは手を振って否定しては見たが、心の中を見透かされた照れ臭さはどうしようもない。照れ隠しの為に、問いを投げ返す。「――そう言うお前はどうなんだよ？」
「まさかな、親と子程、年が達うんだぜ」
と、飛鳥も否定はした。が。
「――畜生め、あと２０も若けりゃなぁ・・・」
と、意図せずして声が揃い、２人は顔を見合わせて苦笑した。
――エア・バトルに半生をかけた男２人の、それが偽らざる心境だった。
「おーい、うちのお嬢さん、知らないか？」
真樹子の姿が見えないのを訝しみ、翔は真琴に訊いた。
「橘さんなら、先刻、着替えてテントの中へ入って行きましたけど」
と、教えられて、親はテントハウスの中へと入った。
真樹子はコンピューター端末機脇のデスクに顔を伏せて、寝息を立てていた。
緊張が解けたせいだろう。それは、翔にも判った。もうちょっと寝かせてやりたい気もしたが、翔は真樹子の肩に手をかけて揺すった。
「ん・・・」
小さく声を漏らして、真樹子は目を覚ました。
「マキちゃん、起きな。まだ、テストの講評があるだろ」
真樹子は顔を上げると、手の甲で瞼の上を擦るようにした。その、ちょっと幼い感じの仕草が可愛く感じられて、翔は思わず微笑んでいた。
真樹子は手を組合せて大きく伸びをすると、漸くすっきりとした笑顔を見せた。
「・・・講評、って？」真樹子は首を傾げてから、不意に思い出したかのように手を打った。「あ、ああ。そんな話もあったっけ」
「こら。しっかりしろ」
翔は真樹子の頭を軽く小突いた。真樹子は頭を掻き、照れ笑いをする。
「――そうだ。そう言えば・・・」
と、言いかけて翔は口を噤んだ。
――リチャードから真樹子を「ＺＥＲＯ」に欲しいと言われた事。そして、このレースが最初で最後の２人で飛ぶレースになりそうな事――カンのいい真樹子だから、あるいはもう気付いているかもしれないが、漸く正式に出場資格を得たばかりの真樹子に、その事を告げる事を、翔は躊躇した。
「・・・どうしたんですか？」
急に言葉を途切らせた翔の顔を見上げて、真樹子は訊いた。
「あ・・・ああ、いいんだ。別に」
見詰められている事を意識して、翔は何故かどぎまぎした。
（――手放したくない）
そう言う気持が翔の中にある事は事実だ。が、その事を自然に認めるまでに、翔は自分の気持ちを整理していない。
真樹子が自分にとってどれ程の存在なのか、その結論を出さなければならない事は判っていた――あくまで、コ・パイはコ・パイとして割り切るのか、それとも、これからの人生にとって欠かす事の出来ないパートナーに彼女を選ぶのか――が、翔は、今の一種、中途半瑞な状態の不思議な居心地のよさに、結論を出すのを躊躇っている状態だった。
（本気でイカレちまったかな、こいつに・・・）
複雑な想いを抱き、翔は真樹子の肩を叩いた。
「ちょっと早いけど、そろそろ行こうや・・・終わったら、テストをパスしたお祝いに何か奢ってやるから」
「うん」
真樹子は頷き、にっこりと笑った。
その笑顔がかけがえのないものに感じられるようでは、もう重症と言っていい。
翔は、次第に真樹子に向かって傾いていく気持を感じていた。
本日のルーキーテストは受験５名中、４名が合格と言う事で終了した。
唯一の不合格者となったトーマス・クラインを抱えるパイパーは今更エントリーを取り下げる訳にもいかず、怪我の為に今回の世界選手権をパスする予定だったエース、ソニア・パーネルに急遽出場して貰う羽目になった。
そして。
明日の土曜は、いよいよ予選第１日。
熱い戦いは、いよいよ明日、その火蓋を切って落とされる。