| ＰＡＲＴ ２０ エプロンにて | |
ルーキーテスト前日。
公式予選を明後日に控え、最終的なセッティングの煮詰めの段階に入った各機は、あたかも当然の事のように、前日に出したベストタイムを軽く突き破るラップタイムを次々に記録する。
午前のコース開放にて、早くもベストタイムは１４分５０秒治に突入する。
ハンナ・レイチェル、１４分５０秒７２。そして、陽飛燕が、ハンナとの激しいデットヒートの末に、５０秒０５と言うラップタイムを叩き出す。
この２人のデットヒートは、それこそ正に死闘と言うに相応しいものだった。他人の後になる事が何が何でも嫌な２人だけに、互いに譲ると言う事をしない。この２人の前には鬼神も先を譲るだろうと思われる程の凄まじさである。なにしろ、Ｈｅ１００のプロペラが「飛燕」のラダーを齧って火花を散らした位だ。
ＭＡＣは、前日に引き続いてキー８３を真樹子に任せた。その為、タイムは大幅に落ち１５分２４秒と言う結果に終わった。翔の出したベストタイムに較べて３０秒近く悪いが真樹子の腕前からすればこんなものだろう、と言うのが翔の実感である。それでも、機体のせいで、下位を占めるプライベーター勢よりは速い。
ＨＡＲＴ・星野深雪、１５分５秒。
そして、昨シーズンのＣ２チャンビオン、エディ・ブラックが一気にタイムを出して来る。１４分５２秒１１。
その他、トップクラスのファクトリー勢は、大体５１秒から５６秒台にラッアタイムを揃えて来た。が、５０秒台を出したのは、未だ、飛燕とハンナの２人しかいない。
「――５０秒０５か。やってくれるぜ、あいつめ・・・」
パドックエリアのＡＡＲＣのテントハウス。今日から始まった公式計時の結果を見ながら下村は嬉しそうに呟いた。
「飛燕か？」
キー８３を真樹子に取られ、退屈しのぎにＡＡＲＣに来ていた翔が、確認するように訊いた。
「ああ」下村は頷いた。「凄い汝だぜ、あいつは」
「おい、シモ」翔は少し声を落とした。「――どうやら、気に入ったようだな、あれが」
「うーん」下村は、ちょっと照れて、はにかみながらもそれを認めた。「まあ、ね」
「・・・にしても、飛燕ねえ――じゃじゃ馬だぜ」
「じゃじゃ馬か」下村も、それは認めた。「碓かに、並の男にゃ乗りこなせそうにないわな」
「例えて言うなら、フェラーリみたいなものさ――見てくれはよし、速さも抜群だがね。金はかかるわ、すぐムクれるわ、おまけに言う事は聞かんしね・・・乗り心地だってどうだか判らんぜ」
――そりゃ、別の女の話じゃないか？、と下村は突っ込み返そうと思ったが、とりあえずは頷いた。
「まあな――とにかく、あいつを見ていると燃えるんだよ」
「何を燃え上がらせてるのやら・・・」
と、言いながら翔の指先はしっかりと下村の下半身を示している。下村相手には翔も遠慮がない。
「放っとけ」下村は照れ隠しに、翔の胸をどん、と突いた。「――お前だって、どうしたんだよ？”面喰いスケベの翔ちゃん”にしちゃ珍しい事もあったもんだ」
「マキちゃんのコトか？――別に俺が選んだ訳じゃないぜ」
「その割には、満更でもないようじゃないか」
翔は答えに詰まった。
「でもなー、ちんちくりんだし、顔はせいぜい可愛いと言う所だぜ」
先刻の仕返しの意味も込めて、下村は真樹子を酷評した。が、翔のむっとした表情に気付いて慌ててフォローする。
「――でも、まぁ、気立てはよさそうだし、よく動くのはいいトコだよな・・・そうそう、ちっちゃい割にはプロポーションはいいよな。バストも結構あるし・・・特に、脚は綺麗だ」
「よく見てるなー」
翔は、複雑な表情を浮かべながら言った。
「それしか楽しみがねーからな。――で、どうだい？あれ、楽しいかい？」
「あん？」
「乗り心地」
「お前なー、いい加減にしろよ。コ・パイってのは後ろに乗せとくモンであって、俺が乗るモンとは違う」
「・・・後ろに？」下村は怪訝そうな顔をした。「――お前、そっちの方の趣味もあったのか？」
「違う！」
「――何だ、てっきりデキていたと思ったんだがな。まだ、新車か・・・じゃ、試乗していいか？」
「おい」さすがに翔は顔色を変えた。「本気で、怒るぞ」
「冗談だ。怒るなよ」下村は取り成した。「何だよ。結局、本気になっているんじゃねえか」
「ふん」翔は、照れているとも怒っているともつかない複雑な表情をした。「――あいつは、特別なんだよ」
「おー、見事に削れちゃってらあ」
ピットに戻って来た「飛燕」の尾翼を見て、下村はむしろ感心したように言った。
「・・・取り合えずパテで修正して、マスバランスだけでもとっておくか」と、溜息混じりに言ったのは、ギュンターの方だ。「交換するのは決勝直前でも遅かないだろ――飛燕、気をつけろよな」
「はあい」先程、トップのタイムを記録した飛燕は上機嫌だ。愚痴っぽいギュンターの言葉にも素直に頷く。「でも、突っ込んだのはあっちの方だよ」
「お前のブロックは露骨過ぎるんだよ」と、下村。「あれじゃ、下手をすると進路妨害でペナルティ喰うぞ」
「はい」
「・・・どうした？」下村は妙な顔をした。「珍しく素直じゃないか」
「これが地なんだよ」笑いながら飛燕は答え、それから真顔になって訊く。「――下村さん、あのエンジン、レースで保ちますか？」
「はっきり言って判らない。保つか壊れるか、ぎりぎりの所だろう」飛燕には正直に言おう、と下村は思った。「こいつは、賭けなんだ」
「とにかく、３時間保てば・・・」
と、呟いて、飛燕は下村ににやりと笑って見せた。
「何だよ、にやにやしやがって・・・お前、どこかおかしいんじゃねえのか」
「なぁによぉ」飛燕は、むっとした表情をして見せる。「おかしいのはそっちの方じゃない。バイクじゃあるまいし、あそこまで引っ張らなきやパワーの出ない、いかれたエンジン作ってさ、扱い難いったらありゃしない」
「そのエンジン乗せたひこーきに乗って、にやついてるのは何所のどいつだよ」
大体、下村と話していると、穏便に話しているつもりが、いつの間にか口喧嘩の様相を見せ始めるのだが、この時もそうであった。しかし、感情自体は決して害されていないのが面白い所ではある。
「――まあ、面白いエンジンなんだけどね。パワーはあるし、一気に吹け上がっていくあの感じ、あたし、好きだな」と、飛燕は言った。何だかんだ言っても、どうやらそれが本音らしい。「・・・あと本当、壊れないって約束してくれたら文句ないのに」
ＤＢ６０５・下村スペシャル。
最高出力３０００hpを４２００rpmで発揮する。
エンジン型式は水冷倒立Ｖ型１２気筒。ボア×ストロークは１５５×１５０mmと、ベースエンジンに較べかなりショートストローク化されたシリンダーサイズを持つ。
バルブはＤＯＨＣ・４バルブ。バルブ挟み角度は２５度。吸気バルブのみに角度をつけたもので、その為、燃焼室は、扁平で非対照のペントルーフと言った感じ独特な形状を持つものとなった。
その理由は、吸気バルブ面積を広くとると共に、エンジンの全幅と全高を抑え、前面投影面積を減らす事が主目的であった。が、非対照とした燃焼室形状によって排気バルブ周辺のノッキングスポットが無くなり、高い圧縮比をとり得た事も見逃せない。
エンジンの性格は航空レシプロエンジンとしては他に例を見ない程の著しい高回転型であり、かつピーキーなものだ。
その出力特性は独特のもので、３０００rpm以下ではまるで意気地がなく、３５００rpmを過ぎてから、漸く本領を発揮し始める。パワーバンドは３８００〜４２００rpmと言う所だが、エンジンの勢いはその回転域を過ぎても衰える事を知らず、レブリミッターの作動する５０００rpmまで殆ど一気に吹け上がってしまう。
そのフィーリングは、正に”天井知らず”で、このエンジンの素性を明確に物語っていた。
「――それを言われるとキツいな」
下村は渋い顔をする。
「そうだ、そうだ」と、飛燕の意見にギュンターも同意した。「”耐久レースの王者”『ヨシムラ』の看板が泣くぞ」
「それを言われるともっとキツいんだよ」
と、下村が更に顔をしかめた時、ぱん、とジュラルミンの機体外板を叩く音が響いた。
「こいつのパイロット、どこ？」
ハンナ・レイチェルだ。深く澄んだグリーンの瞳の底に怒りが見える。
その感情を敏感に察知した飛燕はむっとした声で怒鳴った。
「あたしの機体に何するのよ！」
「そお？・・・じゃ、あなた、あたしのハインケルのプロペラが当たったのにも、ご立腹なののかしら？」
飛燕の前まで足を運びながら、わざと丁寧にハンナは訊いた。
「当たり前じゃない」
「あれ、進路妨害じゃない。今度、あんな事やったら審判にアピールしてやるから！」
ハンナは飛燕の目を正面から睨みつけるようにしながら、怒りも露にして言った。
「何、言ってんのよぉ。あんた、あたしより遅いじゃない」
飛燕は狙いすましたかのようにハンナの神経を逆撫でした――大体が航空用語と啖呵の切り方から英語を覚えた飛燕である。日常ではともかく、喧嘩になれば、すらすらと言葉が迸る。その調子で飛燕は畳みかける。
「前に出られないのにさ、進路妨害だ何て言っても様にならないよ」
「ルーキーが、生意気言うんじゃないよっ！」
２人の身長を較べると飛燕の方がやや高い。ハンナは飛燕を上目使いに睨みつけた。
が、飛燕も負けてはいない。平然と言い返す。
「Ｃ２では確かに無敵だったのかもしれないけどさ。Ｃ１じゃ、あんただってルーキーだろう。いい気になるんじゃない、つーんだよ」
と、次の瞬間。
小気味よい音を立てて飛燕の頬が鳴った。――腹に据えかねたハンナが、平手打ちを放ったのだ。
が、飛燕の反応は凄かった。
頬を打たれるやいなや、殆ど間髪入れずに、飛燕はハンナの鳩尾を蹴り上げていた。
ハンナが身体を折って呻き、漸く下村とギュンターが止めに入る。
「――何て事すんだよ、お前！」
飛燕の肩を押さえつけた下村が飛燕を叱りつけた。
「手加減はした！」飛燕は下村の手を振り払った。「それに、先に手を出したのはあっちの方じゃない！」
こう言う事を声高に主張する辺り、飛燕のメンタリティは幼児と変わらない。その点ではハンナの方が、まだ多少なりとも大人気があった。
「・・・まぁ、いいわ。決着は空でつけましょう」ハンナは、自信と誇りに満ちた笑顔を浮かべながら言った。瞳にはいつもの怜悧さが戻って来ている。「その後でそれだけのプライドが残っていたら誉めてあげるわ」
飛燕は、その、ハンナの態度がどうしても気に喰わない。だから、思いっ切り挑戦的な態度で応じた。
「そんな脅し、あたしにゃ通用しないよ」
「ふん」
ハンナは嘲るように笑ってみせると、輝く金髪を振って身を翻した。
その後ろ姿を睨みつけるようにして見送った飛燕の口元に、じわりと微笑が浮かぶのを見た下村は訝しげに訊く。
「・・・お前、何笑ってんだよ？」
「え？――ああ。嬉しくって、もう」と言って飛燕は、下村ですら思わずぞくりとした程の妖しい笑みを見せた。「ライバルってのは、あの位じゃなくっちゃね――あいつ、必ず、墜してやるわ」
パドックでの翔は、かなり顔が広い。
親子２代でレースをやっているのだから、当然と言えば当然なのだが、翔はレース関係者の多くと顔見知りだった。
午後のコース開放も終わり、パイロットにとって暫しの空白時間が訪れると、翔に会いに、様々な人物がＭＡＣのテントハウスに顔を見せる。
翔の態度と、レースに不馴れなＭＡＣのスタッフのせいで、ＭＡＣのテントハウスは他のどこのテントハウスより開放的な雰囲気になっていた。――機密保持も何もあったもんじゃない、と、須藤は渋い顔をしたが、それでも黙認の形をとったのは、この世界にとって新参者のＭＡＣの将来を考えて、今の所はこうして顔を売っておくのも悪くない、と判断しての事だ。
真樹子はフライトを終えると、暑苦しいフライトスーツをさっさと脱いで、Ｔシャツにホットパンツと言う軽装に着替えていた。そうでもしないと、この炎天下、過ごせたものではない。
冷房を効かせたトレーラーハウスから出ると、外はむっとする暑さだ。真樹子はちょっと顔をしかめ、漸く冷房の効き始めたテントハウスに飛び込む。
冷房が効いているとは言っても、所詮は布きれ一枚で外と仕切られているだけのテントハウス、その効果は知れたものだ。辛うじてマネージメント用のコンピューター端末機が壊れない程度の温度にしているに過ぎない。
テントの中ではマネジメント関係のスタッフが何人かだけ。メカニックはどうやら全員がピットヘ出払っているようだ。
翔は、と見ると、クーラーのダクトに近い所で、２人の男と談笑していた。
（いい場所とってるなあ）
と、真樹子は思い、その傍らへと行った。
翔と話をしていた２人の男のうちの１人、赤茶けた金髪の痩せ形の男が、真樹子に気付いた。
「――君、いけないな。ここは子供の来る所じゃないぜ」
女の子だったら、小学生でも化粧をするのは当然、と、言うアメリカ人の感覚からすれば、小柄で童顔、しかも化粧っ気の全くない真樹子がローティーンに見えたとしても不思議はない。
しかし、さすがに真樹子は憤概した。何か言い返そうとしたが、英語では咄嗟に言葉が出て来ない。
「――こう見えてもあたしは・・・」
漸く言い返そうとした真樹子を完全に無視して、もう１人の、がっちりとした体格の男が言う。
「そう言や、翔、お前のお気に入りだって言う美人のコ・パイ、紹介しろよ」
「そうだ、そうだ」痩せた方の男も同意した。「翔のお気に入りだとすると、凄え美人なんだろうな、きっと」
「いいとも、紹介しよう」
と、翔は言い、真樹子の表情を横目で見た。真樹子は、むっとした表情をしていた。切れ長の目をした真樹子だけに、この手の表情はかなりきつい感じになる。
「――彼女だ。橘真樹子さん」
２人の男は、しまったな、と言うような顔をした。面の皮に関しては相当な厚さを持っている２人だが、咄嗟にはフォローの台詞が用意出来ない。
「あたし、美人じゃないよ」
と、真樹子は翔の耳許で呟くように言った。
「？」がっちりした方の男がそれを聞きとめた。「何だって？」
「拗ねた」
真樹子は答えず、代わりに翔が答えた。
「・・・ごめん」と、がっちりした方の男が、もしゃもしゃの黒髪の頭を掻きながら詫びた。「――俺はスティーブ。知ってるかな、ＡＡＲＣで『ライトニング』を飛ばしているんだ」
「ええ」スティーブの様子に、真樹子はすぐに機嫌を直し、笑顔で頷いた。大体、本気で怒っていた訳ではない。「よろしくお願いします」
「グレンだ。グレン・ロビンズ」と、痩せた方の男が名乗って握手を求める。「今年から、ベルで『コブラ』に乗ってる。翔とは、Ｃ２からの腐れ縁でね」
「ね、何でコ・パイが美人だと思ったの？」
と、真樹子は訊いてみた。
「・・・こいつさ」声を落とし、グレンは翔を示した。「凄え面食いなんだよ」
「誰が面食いなんだよ」
と、すかさず翔は反論する。が、
「否定出来るのかよ、お前」
と、切り返されて翔は沈黙した。
「ふうん・・・そうなんだ」
真樹子は、翔をいつもとは違う目で見た。
「君も気をつけた方がいい」と、今度はスティーブが、真樹子に忠告するように言った。真顔である。「翔の女癖の悪さは相当なモノだから」
「ああ、それなら大丈夫」と、真樹子は、苦笑いに近い笑顔で答えた。「あたし、そんなに美人じゃないから」
これは別に先刻の２人に対する皮肉ではない。殆ど真樹子の本音だった。
「――てめーら、黙って聞いていれば、言いたい放題言いやがって・・・」と、翔。「マキちゃん、こいつらの言う事、信じちゃ駄目だよ」
真樹子は一応、頷いた。が、真樹子とて翔の言う事をそのまま信じる程ウブではない。大体、ハンナ・レイチェルとの関係がそうだし、あれだけの事を言われている以上、それなりの事はやって来たのだろう、位の想像はする。
「あくまでシラを切るつもりらしいな」と、スティーブ。「・・・ロスでさ、翔がちょっかい出した女の数、どの位になる？」
「俺の知ってる限りでも、２桁は確実だな」
「あのな・・・」真樹子の手前、これ以上言われては堪らない。「てめーら、いい加減なコト言うのはやめろよな」
「ほー」グレンがにやり、と笑う。「名前、出すぞ」
翔は唸った。これ以上のやりとりは余計に傷口を広げるだけでしかない。
そこヘ、
「こんちわ――飛鳥、いますか？」
と、下村ともうひとり、眼帯をつけたすらりとした長身の女性が顔を出した。
「ああ、いた、いた――ハーイ、翔、元気してた？」
と、翔に声を掛けた眼帯の女性はケリー・バレット。ＬＶＴチームのエース代理として「コルセア」を駆って出場する”片目の女海賊”である。
その物騒なニックネームは、レースでの事故で片目と片腕を失いつつも、レースを止めようとしない、その情熱、或いは執念に対する賞讃の言葉だと思った方がいい。
「・・・又、話をややこしくする奴が来たか」 渋い顔で翔は言葉を吐き出した。「――これから元気じゃなくなる所だ」
「御挨拶ねー」
と、口を尖らせてケリーは言い、それから、スティーブとグレンにも挨拶をする。その後で真樹子に目を留め、おや？とでも言うような顔になり、記憶を探った後で、おずおずと訊く。
「・・・ええと、あなたがひょっとしてミセス・マキコ？」
「あの」
真樹子は妙な顔をした。先刻は、ほんの子供と見られ、今度は既婚者と見られたのだ。どうなっているんだろう、と思いたくなる。
「あたし、まだ独身ですよ」
「あら、ごめんなさい」と、大して悪びれた様子もなくケリーは言い、自分の早とちりに気付いてケタケタと笑った。「・・・てっきり、翔の奥さんだとばかり思っていたものだから――そう言や、２人共まだ、左の薬指が寂しいものねえ」
「ケリー、お前な、ひとの事より自分の方をまず何とかしろよ」
と言った翔にケリーははしゃいで見せる。
「きゃあ、嬉しい！翔、あたしの事、心配してくれるんだ――でもぉ、且那に逃げられてからこっち、男運ないのよねー」
「――旦那さん、って・・・別れたの？」
躊躇い勝ちに、真樹子は訊いた。
「気の小さい野郎でさー、承知で一緒になった筈なのに、式挙げてから、３レース目だったかなあ、夜逃げしちまいやんの。しかもさ、ツイてない時には悪い事が重なるでしょ、事もあろうにそのレースで事故っちやってさぁ・・・もう、目は潰れるわ、腕はもげるわ・・・災難だったよ」
ケリーはまるで他人事のように気楽に語った。
「うわぁ・・・」
真樹子は思わず意味の無い声を漏らした。意味のある言葉は出て来ない。こんな時、何と言えばいいのか判らなかった。
「――あーあ、どっかにいい男いないかなぁ」
「大体、その顔見て逃げるんだよな」
と、下村が自分の事を棚に上げて言った。
「うるさいわねー、大体、あんたは人の事を言えた顔か、ってえの」
「男の傷は勲章みたいなものさ」下村は平然と答えた。「女の傷と違って値打ちは下がらん」
「格好つけてそんな事言ったってねー、あんたには意気地がないんだよ」話の方向がころころと替わるのはケリーの癖だ。さすがにむっとしたケリーは矛先を急に替えて反撃する「片目潰した位で、レース、やめちまうなんてさ」
「何だと？」
痛い所を突かれて下村は血相を変えた。
「シモ、その位でやめとけ」このまま放っとくと、本当に喧嘩になり兼ねない。そう判断して翔は止めに入った。「ケリーも、余り挑発するなって」
「・・・ごめん」溜息をひとつついてケリーは下村に詫びた。外面はともかく、根は素直な女性なのだ。「ちょっと言い過ぎた、ね」
「いいさ、別に気にしちゃいない」この辺は下村もさばさばしたものである。「それにしても、ＬＶＴだから、とは言っても、よくエースにして貰えたな」
「何よ、そのＬＶＴだから、ってのは？」
と、ケリーは少々面白くなさそうに言った。
「大体、今時、ファクトリーよりもプライベーター機の方が速いなんざ、『コルセア』くらいなものだろう」
「まぁ、ねぇ」と、あっさりとそれを認め、ケリーはすぐに持ち前の屈託の無い口調に戻る。「――その上、エースのダグがこの間、事故って脚折っちゃったし・・・正直な話、この目でＣ１やるのはちょっと辛いんだけどね」
「どうだい、『コルセア』は？」
と、翔が訊いた。
「重いよお。あたしは前に乗ってた『ワイルドキャット』の方がいいなあ。ほんと、あれ、いい飛行機だよ」
「ゼロには勝てんぜ」
「やかましい」と、ケリーは翔を軽くいなして笑い、それから、真樹子に話しかける。「・・・ええと、ミス・マキコ？」
「マキ、と呼んでいいですよ」
「ん・・・じゃ、マキ。ところで、あなたいくつ？」・
「え？・・・ああ、２３です」
「あら、もうそんなになるの」ケリーはちょっと意外そうな表情をした。やはり真樹子は年相応より幼く見える。「――あなたもこの世界に入った以上、覚梧はしてるでしょうけど、この世界、ほんと、死と隣り合わせだからね。あたしだって、命があっただけでもラッキーだったんだし・・・」
「・・・」
「特に、女の場合、顔とか身体、傷つけたら大変だよ。あたしはそれで苦労してんだから――怖い、と思ったらさっさとやめちまう事ね」
「そんな・・・」
ど、真樹子は呟き、納得し切れない表情を見せた。真樹子には、ケリーの言う怖さについては、まだ理屈でしか判らない部分があった。
「――まっ、怖いのが判っていても、それでも止められない、ってのはあるんだけどさ。それに、大体、落ちるのが怖くちゃ空なんて飛べたもんじゃないか」
と、言ってケリーは陽気に笑った。
その日の夜。
パイロットミーティングが嘉手納基地内のブリーフィーリングルームで行われた。内容は翌日のルーキーテストの説明である。
「ルーキーパイロット諸君は前ヘ」
と、標的機パイロットのリーダーであるジャック・レイモンド元空軍中佐が持ち前の大声を張り上げた。
ジャック・レイモンド元空軍中佐は、ベトナムでの実戦歴を持つベテランの戦闘機パイロットである。第一線での飛行勤務から外されるのが嫌で、定年を待たずして軍を飛び出した変わり者で、エアレース界では標的機パイロットを専門にやっている。彼の腕前からすれば、レースに出場してもかなりいい所まで行くと思われるのだが、実戦派の彼にしてみれば、スピードで勝負をつけるレースには、空戦程の魅力を感じないらしい。
「・・・おやまあ、今度のルーキーは、嬢ちゃんばっかかよ」
と、レイモンドは呆れたように言った。
確かに、今回のルーキーのうち、真樹子、飛燕、深雪と３人が女性、男性はパイパーのトーマス・クラインとプライベーターのフレック・パターソンの２人だから、レイモンドが呆れたのも無理はない。
「女だから、と言って、手加減はしねえぞ。覚悟しておけ」
と、言いながらレイモンドは５人のルーキーをじろり、と睨み回した。その、鷹のように鋭い眼光に、飛燕と深雪以外の３人はひるんで思わず目を逸らした。
深雪は、それでもごく自然に視線を逸らす事で無視した。だが飛燕と来たら、レイモンドの視線をまともに受け止めただけでなく、視線の合った瞬間に睨み返しさえしたものだ。
「・・・ほう、少しはまともな目つきをしてる奴がいるじゃねえか」むしろ嬉しそうにレイモンドは言った。「お前、名前は？」
「陽飛燕」
「飛燕か・・・よし、覚えておこう」レイモンドは一旦、出場名簿に目を落として名前を確認し、再び訊く。「ＡＡＲＣ・・・飛鳥の所か？」
「はい」
「成程な」
レイモンドは額き、飛燕の背後を透かし見るような目をした。それから、おもむろに本題に入る。
「さて、ルーキーテストの内容だが∴課題は２つ。タイムトライアルとコンバットだ。
タイムトライアルは、午前中に行う。コースは専用、練習は１回、タイムアタックも１回しか認めない」
――厳しいな・・・と、真樹子は思い、唇を噛んだ。
「コンバットは午後。これは、標的機全機を相手に空戦をやって貰う――」
「全機と、ですか？」
堪り兼ねたかのように、フレックが質問を発した。
「――質問は、俺がいいと言うまでするな」レイモンドはフレックを叱りつけた。「・・・安心しろ、１度に、と言う訳じゃない。最初に相手をするのは２機だ。それから２０秒ごとに１機づつコンバットエリアに入る。ヒットをとられた標的機は退場するし、標的機の空戦時間は１機当たり５分に制限するから、きちんと１機づつヒットを取っていけば、問題はない――尤も、それが出来れば、の話だがな。制限時間は１５分。その間に受けたダメージ以上のヒットが取れたら合格だ」
それにしても、３０対１の空戦である。ちょっと間違えば袋叩きの目に遭い兼ねない。
（どうしよう・・・こんなの、自信ないよ）
と、真樹子は途方に暮れた。フレックと、トーマスもそうだったが、飛燕と深雪は違っていた。２人共、殆ど何とも思っていない様子で、飛燕など薄笑いすら浮かべていた。
「余裕たっぷりだなぁ、おい」幾分意地の悪い口調で、レイモンドは飛燕に言った。「テストをパスする自信は？」
「あります」
飛燕は平然と答えた。
「自信は、悪くない」レイモンドは頷いた。「――そう言や、今の所、最高ラップを記録しているのはお前だったな？」
飛燕は無言のまま、ただ頷いた。返事をしなかったのは、レイモンドの言葉にトゲが含まれているのを感したからだ。
「・・・だからってな、いい気になるんじゃねぇぞ。いくら速く飛べたってな、それだけじゃ、俺は認めん。文句があるんなら、明日のテストで俺に勝って見せろ。そうしたらお前の言う事も聞いてやる」
ルーキーに喧嘩ふっかけるなんて、大人気ないよねぇ・・・と、結構冷静に飛燕はレイモンドの言葉を受け取った。この喧嘩、買うか買わないか少し悩む。
「あたしは――」
たっぷりと間を置いて、飛燕は漸く口を開いた。その場に居合わせた誰もが飛燕が何と答えるか、固唾を呑んで待ち構える。その反応を確認するかのように一旦、言葉を区切ってから、飛燕はゆっくりと続ける。
「――あたしは、誰にも負けない」
飛燕は正面からレイモンドを見据えて言い放った。
たかが、はたちを幾つか過ぎただけの女が発するものとは思えない程の気迫に、さすがのレイモンドですら僅かにたじろいだ。
「・・・今の言葉、俺への挑戦と受け取らせて貰おう」
と、言ったレイモンドに、
「お好きに」
と、然り気なく答えた飛燕の表情に、ぞっとする程の凄味があった。
「凄え奴を拾い出して来たモンだな」
ミーティング舛麦で、レイモンドは飛鳥を捕まえて言った。
「ああ」レイモンドは頷き、そしてしみじみと言った。「・・・あれ程の女、減多にいないぜ。強いて挙げればハンナ・レイチェル位か――あいつ、さ。俺の目をまともに睨み返して来たぜ。それも凄い目つきでな」
「そうか」
飛鳥はまるで自分の事を誉められたかのように、照れながらも嬉しそうに頷いた。
「あいつ、ただ者じゃないな」
「ああ・・・１度、死んだらしい」
「死んだ？」レイモンドは怪訝そうな顔をした。「――どう言う事だ？」
「・・・『夢』をなくして、死んだも同然、って言う状態になったって事さ」
それだけで、レイモンドは納得した。
――『夢』を失い、希望も未来も見失った真っ暗な絶望の底から、あいつは何かを掴んで這い上がって来たのだろう。常人のものではないその目の輝きは、他人にはない自分だけの何かを持っている証に違いない。
「おい、飛鳥」レイモンドは静かに言った。その声は、幾分自信が無くなっているように聞こえた。「俺はとんでもない奴に喧華を売っちまったのかな？」
「そいつはどうかな」と、飛鳥はとぼけて見せた。「ま・・・はなっから負けると判ってる喧嘩を買うような奴は、うちにはいない筈だけどな――いずれにせよ、やってみればはっきりするだろ」
「違いない」レイモンドは笑い、それからその表情を精悍と言える程のものに変えて、言う。「――あれだけのでかい口を叩いたんだ。ただのルーキーテストをやる訳にはいかんぜ。いいか？」
「勝手にしろよ」平然と飛鳥は答え、そして言い放った。「――判ってるか？あいつは、うちのエースなんだぜ。標的機なんかに墜せるもんか」
その頃。
ルーキーと常連勢のパイロット同士の交歓の場として開放された基地の食堂で、飛燕は他のＡＡＲＣのパイロットと共にコーヒーを飲んでいた。
「しかしなあ、お前、凄え自信だな」
と、飛燕の隣に坐ったスティーブが呆れたように言った。
「まあね」と、飛燕はにこりとする。「格好、よかったでしょ？」
「馬鹿。袋叩きにされるぞ」
「面白そうじゃない」スティーブの心配をよそに、飛燕はけろっとしたものである。「あたし、そう言うのって１度やってみたかったんだ」
「――つけ上がるなよ、ジャップ」
いきなり背後から怒鳴られて、飛燕はぴくりとその表情を変えた。コーヒーカップを静かに置いて振り返る。
と、そこに１人の男が立っていた。男は標的機パイロットの１人、ケビン・ウィリアムズだった。
「・・・つけ上がるな？」
飛燕は静かに問い質した。切れ長の目がすうっと細くなり、刃物のような澄んだ輝きを帯びる。
急に高まった緊迫感の中で、飛燕の声はやけに印象的に響いた。
「ああ」あまりに落ち着いた飛燕の反応に気を抜かれたのか、ケビンは少し声を落として言った。「――飛烏に、どうやってとり入ったのか知らねェが、いい気になるな、ってんだよ」
飛燕は、またか、とでも言うかのような表情をした。――こんな輩をいちいち相手にしてはいられないな、と言う思いがあった。
「けっ・・・！」その、飛燕の反応が面白くなかったらしい。ケビンは再び語気を荒立てた。「飛鳥もヤキが回ったんじゃねェのか？・・・妾をエースにするなんてよ」
根も葉も無い言い掛りに、さすがに飛燕が厭そうな顔をする。ゆらり、とスティーブが立ち上がった。
「スティーブ、お前もさ、こんな奴にエースを取られて悔しくないのかよ？」
と、言うケビンに、スティーブはドスの効いた声で静かに言った。
「こんな奴、だと？・・・お前はうちのエースを侮辱するのか？」
「え？」
「エースの飛燕を侮辱する奴は、セカンドの俺を侮辱したのと同じだ。許す訳にはいかねえ」
スティーブは１歩、踏み出した。その迫力に押されてケビンは思わず後退りをする。
「ヘイ、スティーブ。何もあんたがそこ迄やる事はないよ」と、ＡＡＲＣ・Ｎｏ．３のトニー・アレンが口を挟む。「ＡＡＲＣの名誉は俺達が守るさ」
トニーはちょっと気障な仕草でパチン、と指を鳴らした。と、素早くケビンの後ろに回り込んだボブ・ブラウンとヒュー・アンダーソンが両側からケビンの腕を捻り上げた。
「何をするっ！」
ケビンは喚き、暴れるが、大の男２人がかりて押さえ込まれた腕を、そう簡単に振り解けるものではない。
「ケビンさんは、今日の所はもうお婦りになるそうだ」と、トニーは言った。「外まで丁寧にお送りして差し上げろ」
「・・・覚えていろ！」
ケビンは２人懸りで引き摺られながら、捨て台詞を吐いた。
スティーブは溜息をつきながら再びゆっくりと腰を下ろした。
「――あいつも、根は悪い奴じゃないんだが・・・」と、弁護するようにスティーブは言った。「・・・腕も、決して悪くない。ただ、ツキに恵まれなくて未だに標的機パイロットさ。当たり散らす気持ちも判ってやれや」
飛燕は頷いた。――が、その横顔はスティーブの予想に反して怒っていなかった。ポーカーフェイスかな、とも思いはした。が、飛燕が日本人にしては珍しい程に感情をストレートに表現する事を知っているだけに、そんな筈はない、とスティーブは思い直した。
「・・・お前、怒っていないのか？」
判んねー奴だな、と思いながらもスティーブは訊いてみた。
「あんまりー、ね」
飛燕は苦笑いをしつつ、曖昧に答えた。
「あそこまで言われて黙っている事はないだろう。喧嘩をしろとは言わないが、何で怒らない？」
「別にー、あいつを病院送りにするのは簡単なんだけどさ」と、まともな人が聞いたらびっくりしそうな事を飛燕はごくあっさりと言ってのけた。「・・・たださ、あたしは決めたんだ。雑魚はもう相手にしない、ってね」