| ＰＡＲＴ １３ 梅雨 | |
雨の降り続く昼過ぎ。
ＭＡＣの宿舎に、不意に飛燕が顔を出した。飛燕は大きな紙袋を抱えていた。
「なんだい、それ？」
訝るように、訊く。
ヘヘ・・・と悪戯っぽく笑いながら、飛燕は紙袋の中身を示した。
「――ポテトチップス？」
「どうしたの、そんなに沢山・・・？」
そう尋ねた真樹子に、押し付けるようにして飛燕は紙袋を渡した。――まだ、ほんのりと暖かい。芳ばしい匂いが真樹子の鼻を擽る。
「あたしが作ったんだよ――暇だったから。んでね、お据分け」
「わあ、どうもありがとう」真樹子は、ぺこりと頭を下げた。「――じゃ、お茶入れますね。どうぞ、ゆっくりしていって下さい」
と、言うと真樹子は素早くその場の人数を確認し、ポテトチップスの袋を真琴に渡す。
「あ、あたしがやりましょうか？」
と、真琴が気を効かせて言ったが、真樹子は笑いながらその申し出を断わるとキッチンへと向かった。
「駄目だろー、いつもマキちゃんばっかにやらせちゃ」
真琴の抱えている袋の中からポテトチップスを摘み上げながら、翔は言った。
「んー」真琴はばつの悪そうな表情をした。「橘さんにはかないませんよお」
「――これさ、飛燕、お前が作ったんだろ。上手いもんだね」と、翔は惑心したように言った。「結構、器用なんだな。よく、芋をこんなに薄く切れるもんだ」
「あたし、そう言うの得意なんだよね」と、飛燕は胸を張った。「りんごだって、１個続けて皮剥けるし、胡瓜の塩揉み作るのも好き」
「なあんだ。要は包丁使うのが好きなだけじゃないか。危ねえ女だ」
「どおゆう意味よお」
真樹子が人数分のお茶を入れて戻って来た。――久し振りに寛いだ空気が流れ、談笑の輪が広がる。
いいチャンスかもしれない。そう思い、真樹子は思い切って飛燕に訊いてみる。
「あの・・・陽さん。前から１度訊いてみようと思ってたんだけど、練習で飛ぶ時、何を１番練習します？」
「水平飛行」
飛燕はきっぱりと言い切った。
「すいへい・・・飛行？」
真樹子は一瞬、あっけにとられた。すいへい飛行とは、どんな高等飛行だろう、と訝しみ、それがただの水平飛行だ、と言う事に思い当たるまで、僅かだが時間を要した。
「何よお、何、変な顔してんのよ？」
「あ、いえ・・・別に」
「そりゃあさあ、あたしのあんな飛び方見てれば意外に思うかもしんないけどさ。あたしだって、それなりの練習はしてるんだよ」
「おや、珍しくまともな事喋ってるじゃないか」
横から翔が茶々を入れる。飛燕は翔を睨みつけた。
「悪かったね、珍しくて。どうせ、あたしゃ馬鹿ですよ」と、むくれて見せる。「――もう、何話してたんだか判んなくなったじゃない・・・で、さ、何でそんな事するかなんだけど、要は水平飛行ってのを身体に覚えさせる為にやってるんだよね」
「そんなの、計器を見りゃ済む事じゃないか」
と、翔。
そりゃ、そうだよね。と、口には出さないが、内心、真樹子も翔に同意した。
「普通はね――でもさぁ、計器を見るのにちょっとでも時間がいるじゃない。身体で覚えれば早いよ」飛燕の口振りは自信に溢れていた。「で、さ。目を閉じたままで、どんな体勢からでも、すぐに水平飛行が出来る自信があれば・・・どんな事やっても怖くないよ」
「ああ・・・」
成程・・・真樹子は納得して頷いた。
（カンに任せて突っ走るタイプの人だとばかり思ってたんだけど・・・意外と努力家の面もあるんだな、陽さんって・・・）
そう思い直して改めて飛燕を見ると、前にも増して凄味が感じられるように思えた。
「ただ、ね・・・」
「はい？」
念を押すように飛燕が口を開き、真樹子はびくっとして返事をした。
「自分を鍛えてくやり方なんか、自分で見つけるもの。他人に訊いても自分のものにはならないよ」
淡々と話す飛燕だが、その口調ま大人び、言葉には重みがあった――さすが、ＡＡＲＣでエースやってるだけの事はあるんだ、と思う。
「・・・はい」
真樹子は気圧され、それだけ答えるのかやっとだった。
その日のタ方。
夕食のテーブルを囲む輪を、電話のベルの音が破った。
真樹子が素早く立ち上がり、駆出して行く。――こう言う時の反応、そして行動に移る迄の速さにかけては、真樹子は本当に速いな、と翔はいつもの事ながら感心する。
暫くしてから戻って来た真樹子に翔は訊く。
「――何の電話だった？」
「本社・・・須藤さんから」席に着きながら真樹子は続けた。「――ハー４３−III、回ったって」
「え？」
その場にいた誰もが、一瞬、あっけにとられた。嘘だろう、と思う。
「――凄えや・・・」と、中島が呟く。「取りかかってから、２週間で・・・」
「部品自体は出来ているから、組み上げるだけだ、とは言っていたけど・・・それにしても早いよな」と、翔。――皆、それだけ頑張ってくれたんだ、と思う。「――で、パワーの方は？」
「今の所は、３４００hp出てるそうです」
「３４００hpか・・・」翔は頷いた。「――ベンチ上で、最初からそんだけ出てりゃあ、まだまだ期待出来るな」
「チューニング次第じゃ３６００hpは出るでしょうね」
「そんなもんじゃないさ。目標出力は３８００ｈｐなんだぜ」
「どうかなあ、のんびりとベンチ上でエンジンを開発していく余裕はないんじゃないかな？」
大体が三度の飯よりメカが好きな連中である。目前の食事などそっちのけで、まだ見ぬハ−４３−IIIについての熱い会話が続いた。
――ライバルより優れたマシンを作り上げる事。それが、俺達の戦いだ、と須藤は言った。
その自負心。そして、翔の期待に応え、彼等はやるべき事をやった。
それだけでも翔は嬉しかったが、更に、その事を我事のように喜んでくれるメカニック達を目の当たりにした事が、翔の喜びに輪をかけた。
――いいチームだな、と思った途端に、翔は身体の中がかっと熱くなるのを感じた。
そう。
今度は、俺が彼等の期待に応える番だ。――翔は、改めてその事を意識した。
激しい訓練は、梅雨の湿っぼい天気の中、ＶＭＣ状態を逃さずに行われた。
尤も、よっぽどの悪条件でない限り、ＶＭＣ条件を満足していなくとも強引に飛び上がってしまう。
――そんな毎日の中で、珍しく青空の見えた日。
訓練メニューに従って、ＡＡＲＣの２機の標的機を相手の空戦訓練を済ませ、コースに入ろうとした翔は、コースを周回する「飛燕」の姿を捉えた。
「隼」の姿はない。――今日に限らず、深雪は最近コースフライトをやっていない。ま、あいつにはあいつのやり方があるのだろう、と翔は思っていた。
「マキ、ひとつ、やろうか？」
「陽さん相手？――面白い、やろうよ」
「そうこなくっちや」翔はにやりとした。「んじゃ、ま・・・行くぜっ！」
くるっ、とロール。キャノピーの外で海と空とが入れ替わる。スティックを引付けてダイブ、ロールして姿勢を回復。空が頭上に戻り、翔はコースを確認、パワー・オン。
キー８３は翔の意志に応えて鋭く加速。
葉月が頑張ってくれたお陰で、キー８３の性格はぐっと戦闘的になっていた。数値で表わされる性能以上に、そのフィーリングが、いける、と言う手応えを翔に与えていた。
スピードを充分にのせ、「飛燕」後方に占位するようにコース・イン。「飛燕」との距離、約５０ｍ。
ベンチレーターからコックピットに流れ込む空気に、排ガスが混ざり、オイルの焼ける臭いが鼻をつく。
（今日は、この前の時とはちょっと違うぞ・・・そう簡単には逃がさない！）
――飛燕の方も、バッグに喰いついたキー８０に気付いていた。
「・・・来た、来た」思わず笑みが零れた。「待ってましたっ！」
飛燕は競り合いになると燃える性分だった。大体、競り合いになると飛び方ががらりと変わるし、追い詰められれば追詰められる程、実力を発揮する。
そして。
一度、追い上げる立場になったら、その時に発揮される攻撃力は大抵のパイロットを震え上がらせるだけの凄味と切れ味を持つ。
（ま・・・どこ迄ついてこれるか、ね。あのでかい図体でさ）
この時迄、飛燕はキー８３をナメてかかっていた。深雪の「隼」ならともかく、このコースであんな鈍重な機体に負ける筈はない、と思う。
左、急旋回。
飛燕は、例によって、ボップアップから鋭いロール。「飛燕」が、正に燕のように軽やかに、かつ素早く、その機体を翻す。
スティックを限界一杯に引付け、７Ｇをかけて旋回。耐Ｇスーツが下半身を締め上げる。全身が石と化したかのように重く、呼吸すら苦しい。ヘルメットをつけた頭が、胴体にめり込みそうだ。
それでも視線はコーナー出口をしっかりと見据え、手足は最短時間でコーナーから脱出すべく、微妙なコントロールを機体に与える。
海面上ぎりぎり、コミングアウト。
体勢を素早く立て直し、ズーム上昇で高度を取り戻しつつ、ちら、とバックミラーを見る。
「え・・・!?」
バックミラーに映る、緑の機体。――キー８３だ。
（今の旋回についてくるなんて・・・！）
飛燕の背筋に戦慄が走った。と、同時に堪らなく嬉しくなってくる。――やってくれるじゃない。これなら相手にとって不足はないわ、と思う。
「マキ、大丈夫か!?」
――今の旋回で瞬間８Ｇがかかったからな、と翔は真樹子を気遣った。
「平気！」
思っていたより元気な声が跳ね返って来た。
この所、随分Ｇに強くなってきたなと、翔は感心をする――その間も視線は「飛燕」を追い続け、手足は機体のコントロールに休む暇もない。７００km/hの世界には、のんびり出来るような余裕はない。
次のコーナーか迫る。
「５００先、ゆるい右、２時」真樹子が指示を出す。「３００、１００、０！」
真樹子の指示からタイミングをとって、翔は突っ込む。
先行して旋回する飛燕の後ろ姿から、無駄が消えた。
（本気になった、って訳か）
翔は納得した。――と、すると、先刻迄はこっちをナメてた訳だな。その分のお返しは覚悟しておけよ、と思う。
コーナー入口のバルーンをかすめ、ラダーを踏み込んで尻を振出させ、前を向こうとする機体をパワーでねじ伏せつつ、減速。
そして、ロール。だが、その角度は浅い。翔は、断続的にラダーを使って強引に機体の向きを変えていき、機首が脱出方向を向いた所で、一気に機体をバンクさせて横滑りを打消し、素早く切り戻して立ち上がる。
コーナーからの立ち上がり加速。
これだけはキー８３も「飛燕」に引けをとらない。スペック的にはほぼ互角だし、旋回時にかなり思い切って高度を落とす飛燕は、立ち上がりでの引き起こし量が大きくなる分、不利だ。
単発の「飛燕」には不利な、右の高速コーナーだったが、僅かに差を詰められた事が、翔を喜ばせた。
一方、追い回される飛燕は、さすがにプレッシャーを強く感じていた。
飛燕にとって不利だったのは、コースが以前より高逮型に変更されていた事だろう。そうなると、トップスピードの高いキー８３の方が、どうしても有利にはなる。が、飛燕はそんな事で自分を納得させて先を譲れるタイプの人間ではない。
飛燕、それこそ全力を尽くして飛び続けた。――速く。更に、速く。ひとつひとつのコーナーに全力をぶつけて、回る。それでも、キー８３は離れない・・・
（・・・凄え――化物だぜ、あの女）
追う翔も、飛燕の腕の冴えには、心底舌を巻いた。それは、以前、飛燕を追った深雪が抱いたのと同じ思いだった。
だが。
（――負けるものか！）
戦闘力が低いのは承知の上だ。旋回性が悪いのは突っ込みでなんとかする。機動力で劣るのは、スピードでカバーすればいい。
じりじりと差をつめるキー８３。それをバックミラーに、そして振り向いて認めた時に飛燕の感じたプレッシャーは、深雪に攻められた時以上のものだった。
確かに、深雪のアタックは凄かった。が、深雪のアタックは、あくまでも余裕のあるアタックだった。自分が優位に立っている事を踏まえた上で、ごく素直に、その差をぶつけて来た。
しかし、翔は違う。
機体は、「飛燕」の方がキー８３よりも優れている。それは確かだ。しかし、翔はそれでも喰いついて来る。少ない利点を活かし、劣っている所をカバーして・・・何故、そこ迄するのか。勿論、負けたくないから――ライバルに、そして、何よりも自分に――その、気力、その、闘志！
飛燕には、それが判る。大体、飛燕自身、そんな想いを抱いてここ迄這い上がって来たのだ。
だから。
飛燕は翔から強いプレッシャーを感じ、そして、恐れた。
その機体から殺気を感じたのも、気のせいではあるまい。
・・・こんな感じ、初めてだな、と飛燕は思う。そして、その事が、翔が自分にそんな感じを覚えさせるパイロットだった事が嬉しい。
キー８３が「飛燕」の直後に貼りつく。
「ちっ！・・・このっ」
飛燕はその事を嫌って、アウトサイドに思いっきり出ていってからゴーイング・イン。一方、翔はインサイドのバルーンを舐め、機尾を振りながらコーナーへ進入する。
飛燕得意の降下しながらの垂直旋回。アウトサイド一杯から出口のイン側バルーンに向けて、フルスロットルで駆け下りる。
その「飛燕」のラインと、アウトヘ滑り出しながら旋回していくキー８３のラインが交差する。
しかし、翔は譲らない。飛燕もそうだ。
キー８３の鼻先を「飛燕」はかすめた。どこか、ぶつかったらしい。微かな衝撃が身体を震わす。が、その次の瞬間には、双方共に何事もなかったかのように加速競争に入っていた。
こうなると、機体の差は問題ではない。パイロットとしての技量もそうだ。勝負を決めるのはレーサーとしての気力。要するに、気合の問題だ。
スロットルは全開、また全開。コーナーは瞬間に全てを投じて闘う戦場と化した。有利なラインを得る為に、翼で相手を押し退け、弾き出すような真似さえする。
・・・それは、燃料が乏しくなるまで続いた。
厚木に戻った時には、さすがの飛燕もバテていた。
コックピットから出て、ヘルメットを外した所で緊張が一気に解けて、飛燕はエプロンのコンクリートの上に直接座り込んでしまった程だ。
体カ、そして気力共に、その殆どを吐き出してしまったような感じだ。高Ｇに耐えた四肢は未だＧがかかっているかのように重く、極度の緊張から解放された神経は、何をやろうにも、とにかく面倒と言う反応しか示さない。
「どうした？・・・大分、バテているようじゃないか」
と、飛鳥一が声をかけた。
「はあ」
飛燕の気の抜けた返事に、飛鳥は苦笑した。それから、エプロンに並んて駐機してるキ一８３に目をやって、訊く。
「――あいつと、やりあったのか？」
「凄いですね・・・あの人は。半端じゃない」
「翔・・・あいつめ」飛鳥は小さく頷くと、徐に口を開いた。「――まあ、な。親の俺が言うのも何だが・・・獅子は我が子を千尋の谷へ突き落とす、と言う。あいつは、自ら谷底へ飛び降りた――親の贔屓目もあるだろうが、並の男じゃあるまい」
飛燕は無言のまま、２度ばかり額いた。
「それにしても・・・」と、飛鳥は呟きながら、翔と、そして、真樹子の姿を目で追った。「面白いコンビだよな」
Ｇによる疲労は後に残る。
身体中が疲れでずっしりと重い。両の腕など肩から抜け落ちそうだ。
が、翔の心は身体とは対照的に軽かった。
鼻歌混じりで機体チェックを済ませた翔に、複雑な表情で中島が声をかけた。
「飛鳥さん、ちょっと・・・」
「なんだい？」
翔は振り返った。真樹子も翔の傍らに寄って話に首を突っ込む。
「本社からなんですけど・・・」
「悪い話か？」
翔は、中島の顔色を読んで訊いた。
「・・・いい話もありますけどね」
「じゃあ、いい話から聞こうか」
「３号機、組み上がったそうです。天気がＯＫなら明日にも初飛行して、月末か来月の頭には引き渡せる、と言う事です」
「月はな、って事は本番まで３週間ちょい・・・セッティング含めてぎりぎり間に合うって言う感じだな」
「耐久性の確認まではやれないですよね、この日程じゃ」
「まあな。承知の上さ」贅沢は言えない。とにかく間に含わせてくれただけでも感謝しなければならない所なのだ。「――で、悪い方の話ってのは？」
「葉月さんが倒れたって。過労だそうですけどね」
「・・・無理もねえやな」
「３号機の仕上げを、７２時間ぶっ通しでやった、って話ですよ。一応、葉月さんは自分の持ち分は全部仕上げてから倒れたらしいんですけど・・・」
「うわぁ」今迄黙って話を聞いていた真樹子が呟く。「・・・デスマッチだ」
「マキちゃん」と、翔。「急ぎで悪いけど、フライトプラン、作って――それから、名古屋に行く。葉月君の見舞いにね」
「あ、はい」真樹子は額いた。「すぐに？」
「準備が出来次第、飛ぶ――あ、明日の３号機の初飛行、立ち合っておきたいから、今日はあっちに泊まるつもりでね」
「はいっ」
返事をするが早いか、真樹子は既に駆け出している。その後姿を見なから、訝しげに中島が訊く。
「見舞の為にわざわざ？」
「葉月君には世話になったし――それに、あいつにゃ、マキちゃんの見舞いが何よりも薬になるだろ」
「ああ、そう言う事」中島は納得した表情になった。「――知ってたんですか？」
「そりゃあな・・・判るさ」
葉月が真樹子に惚れている事。それも、相当の重症になっているのは翔も知っていた。だからこそ、あれだけ頑張れたのだろう、と思う。
「橘さん、知ってますかね？」
「どうかな？・・・葉月君も口に出して言えるタイプじゃないしな」
「いいんですか？・・・橘さんとられても」
と、中島が悪戯っぽい表情をつくって訊く。
「・・・馬鹿ぬかせ」翔は複雑な表情をした。どんな顔をしたらいいのか判らないと言った風だ。「――日の高いうちに小牧に着きたいからさ。飛行準備、急いで頼むよ」
キー８３・３号機の初飛行は無事に終わった。
又、葉月の方も、結構元気そうで――尤も、真樹子が顔を見せたせいかもしれないが――翔を、ほっとさせた。
が、又、新たな問題が発生した。
エアレース世界選手権の主催団体である、ＦＡＩ――国際航空連盟――から、コ・パイとしてエントリーしている真樹子にもルーキーテスト受験の必要あり、との通知が入ったのだ。
今迄、コ・パイは直接機体をコントロールする事はないから、ルーキーテストは不要だろう――実際、規定には記されていなかった――と判断していたＭＡＣでは急遽、何等かの手を打たなければならなくなった。
ルーキーテスト。
要は、新参パイロットに対するテストのひとつだ。
いかに腕が立とうが、経験があろうが、このテストにパスしない限りは、エアレース界において、ヒヨッコ扱いされる事を避けられない。
テストは通常、標的機によって行われる。
テストを受けるパイロットは、指示された時間内で、指示された標的機を相手に空戦を行い、規定以上のヒットポイントを獲得せねばならない。それが出来なかった場合、又は制限以上のダメージポイントを受けた場含には失格となる。
「ふうん」真樹子は翔の説明に一応、頷いた。「・・・で、失格したら？」
「当然、レースには出られない」
「えーっ、そんなぁ」
「ま、落ちると決まった訳じゃなし、何とかなるさ。簡単なテストじゃないが、やって出来ない事じゃない」
と、翔は気楽に言ったが、実際にはそれ程楽をテストではない。大体、３人に１人は落とされるのだ。そうでなければ貴重な時間を割いてその為に特訓をする訳がない。
訓練に入る前に、翔は真樹子にＡＡＲＣの２人の標的機パイロットを改めて紹介した。２人共、まだ若い。Ｐ−５１Ｄ「ムスタング」に乗るボブ・ブラウンが２１歳、Ｆ４Ｕ「コルセア」に乗るヒュー・アンダーソンはまだ１９歳でしかない。
翔の狙いは、まだ若い２人を紹介する事で、真樹子の緊張を解き、リラックスさせる事にあった。
一応、紹介を終えた後で、ボブ・ブラウンは、真樹子の年齢を翔にそっと尋ねた。翔が６月で２３になった、と答えると、びっくりして見せ、高校生位かと思っていた、と言う。相当に幼く見えていた事は間違いない。
真樹子にしてみれば、標的機に乗るパイロットが自分とさして年が違わず、経験も似たようなものだ、と言う事が判って、大分気が楽になったようだ。
ここ迄は翔の狙い通りだった。
「ま、今日はちょっとこいつの相手を頼む」
最後に、翔は念を押すように２人の標的機パイロットに言うと、きびすを返し、エプロン上のキー８３に向かった。
「まず、俺がやってみる。いいな？」
まずは見本を見せる為に、翔が前席について操縦する。
三宅島西方海上の訓練空域。高度３０００ft。
天気は曇り。雲底が高いのが救いだ。ま、太陽が眩しくなくていいさ、と翔は思う。
スティックが少し重い感じがする。２重操縦式に切り替えたせいだ。キー８３の操縦系統はフライ・バイ・ワイヤだから、厳密な意味でのフィードバッグはない。が、敏感過ぎる疑似フィードバック装置は、舵面にあたる空気の手応えは勿論、翔の操縦を覚えようとスティックに手を添える真樹子の、その掌の感触まで翔の手に伝える。
「あまり強くスティックを握らないでくれ」
と、翔。
「ああ，すいません」
真樹子は慌ててスティックを握る手から力を抜いた。――そうそう、卵を握るように、っと――真樹子の手の中で、スティックは明らかな意志を持って微妙に動いていた。
（これが飛鳥さんの操縦なんだ）
そう思うと、心が震える。翔の手に直接触れているような気がして、ついついスティックを握り締めてしまう。
「おい、握るなって言っとろ一が」
「ごめんなさい」
「・・・ったく」翔は舌打ちした。次の瞬間には口調が変わる。ターゲットを捕捉したのだ。「――来るぞ。２時の方向」
高度差、５００ft。翔はキー８３を素早く上昇させて、同高度で正対した。距離、約５km、２機の機影かシルエットになって迫る。
旋回に備え、機をバンク。キャノピー・トウ・キャノピーで擦れ違う。
ここで、２機の標的機は編隊を解いて分離した。ブラウンの「ムスタング」は緩やかに水平旋回に入り、アンダーソンの「コルセア」は上昇した。
翔はスロットルを絞り気味にしつつキー８３を上昇させた。
高度に変換されて、速度がぐんと落ちていく。スティックは引いたまま、ラダーを使って方向を修正。背面姿勢で、ブラウンの「ムスタング」の位置を確認。
背面から更にスティックを引付けて降下。エルロンを使ってロール。インメルマンターンの要領だ。エンジンの余力を活かし、高度を速度を変えつつ、「ムスタング」の後方ヘ回り込み、アタック。ブラウンは水平旋回を行った為、速度が落ち、かつ余剰推カがなくこのアタックをかわし切れない――撃墜！
そこヘ、アンダーソンの「コルセア」が、降下速度を利して喰いついて来る。
（読みは悪くないが・・・ちょっと遅かったな）
と、思いつつ翔は上昇、斜め旋回。翔は、機を滑らせながら旋回する。その為に、折角後方に占位しつつもアンダーソンは有効なヒットが得られない。
翔は徐々に水平旋回に移行、じりじりとスピードを上げていく。Ｇが連続して身体を締め付ける。が、こうなったら根比べだ。弱気になって、先にスティックを緩めた方が負ける。
２度、３度・・・連続して旋回するうちに、アンダーソンの「コルセア」が背後から離れ、Ｇによって下がり勝ちになる瞼の上端辺りにちらちらと見え始めた。
（もう一息だ）
５度目の垂直旋回の時。とうとう根負けしたかのように、「コルセア」がふらつきながら、ずうっと目の前にのめって来た。
（――貰った！）
ここぞとばかりに翔は余カを振り絞ってダッシュ、ぐいっとキー８３を「コルセア」の背後に回り込ませて、トリガーを押す――撃壁表示。翔は、ほっと息をつくと反転し、離脱する。
「――と、まあ、こんな具合だ」
「はあ・・・お見事」
「感心してどうする」翔は苦笑した。「しっかり覚えてくれよ。次は、マキちゃんがやるんだよ」
それから幾度か、見本の空戦を見せてから、一且厚木に戻った。
「いいかい？」翔は念を押すように、真樹子に言う。「標的機の連中に比べたらマキちゃんの方が、腕も機体もいい。だから、冷静にやれば、勝てる筈だ。相手を呑んでかかれ。ただ、油断しちゃ駄目だ」
「はい」
真樹子は神妙な顔で頷いた。
「それから、空戦中は絶対にまともな飛び方をするんじゃない。絶えず、機を滑らせてるんだ。相手に進路を予測されるような飛び方はするな」
「はいっ」
「そう意気込まなくてもいい」翔は苦笑した。リラックスするように、と笑顔を見せて真樹子の肩を叩く。「どうせ練習だからさ、気楽にやろう」
と、言って翔はキー８３の後席に着こうとするが、コックピットに半身を入れた所でその動きが止まった。真樹子を呼ぶ。
「マキちゃん。狭いぜ、これ」
「ああ」前席に着き、座席の調節を行っていた真樹子は、翔の声にコックピットから上体を乗り出して振り返り、笑った。「それ、あたしに合わせたサイズだから」
「マキちゃん、身長いくつだっけ」
「１５４」
「・・・やめた」身長１８０ｃｍに近い翔とは体格が違い過ぎる。翔は後席に乗り込む事を諦めた。「替わりの機を探して来る。予定通り出てくれ。後から追いかけるから」
そう言い残して翔はＡＡＲＣが使っている格納庫へ向かった。
格納庫内には、グループＢ仕様の「ムスタング」があった。翔は、その傍らで「飛燕」のスペアエンジンに取り付いているメカニックのギュンターに声を掛ける。
「――親父は？」
「おい」ギュンターは、ちょっと迷惑そうな顔をした。「エンジン、バラしているんだぞ。遠慮して欲しいな」
「ああ、悪い・・・で？」
「・・・咋日、本社に戻った」ギュンターは一応、エンジンにシートを掛けて目隠しをした。「本社の方をいつまでも放ってはおけないとさ」
「今迄、さんざ放っておいて何言ってるんだか」翔は苦笑した。それからおもむろに本題を切り出す。「――『飛燕』は？」
「空」ギュンターは指先を天に向けた。「ＶＦＲ許可が下りたら、日が暮れるか、ガス欠にでもならない限りは下りてこないよ。あいつは」
「成程。――じゃ、『ムスタング』貸してくれ」
「機種別免許は？・・・こいつの」
「ない」
「・・・仕方ないな」ギュンターは立ち上がった。「俺がパイロット、お前は同乗者、と言う事にしよう。――準備はすぐ整える。フライトプラン位は、お前が書けよ」
「ありがとう。恩に切るよ」
「レンタル料の請求書は、ＭＡＣ宛でいんだな？」
「けっ」翔は渋い顔をした。「・・・しっかりしてやがる」
――早速、フライトプランをでっち上げ、コントロールヘ提出する。係官は、いつもの事、と苦笑いじみた表情を作りながらも受け取ってくれた。
エプロン上では、まだキー８３がエンジンをかけたままで待機していた。真樹子はコックピットから半身を乗り出すようにして、辺りを見回している。
翔を、待っているのだ。
馬鹿が、と小さく呟いた翔だが、ここまで慕われては悪い気はしない。
真樹子は翔に気付いた。翔は早く行け、と身振りで指示をする。真樹子はちょっとバツの悪そうな顔をしてコックピットに潜り込む。
翔は「ムスタング」の発進準備に取りかかった。
真樹子は苦戦していた。
総重量、実に８ｔ近く。６０００ｈｐを超えるパワーを持つマシンを思いのままに操るには、それ自体、かなりの自信と勇気を必要とする。勿論、それなりの技量が必要なのは当然の事だ。
正直な所、真樹子はキー８３を扱いかねていた。
２機の標的機を相手に、真樹子は守勢一方だった。
速度、加速、上昇力、スペックはキー８３の方が標的機より確実に上だ。が、最初から逃げ腰になっている真樹子は逃げる事以外に、その優れた性能を活かせない。
そうなると、たとえ若くとも、それなりに場数をこなしている標的機パイロットの方が強い。真樹子は、ただ追い回されるだけだ。
これでは、訓練にならない。
訓練開始後、暫くしてから訓練空域に到着した翔は、苦い顔で真樹子の戦いぶりを見ていた。
「あれじゃ、駄目だぜ」
ギュンターが遠慮のない口調で意見を述べた。
翔も、ほぼそれと同じ意見だったが、微かな疑問だけは感じた。――あいつ、あれ程下手じゃない筈だ。事実、コ・パイとし一緒に飛んでいる時には、かなりの高機動をこなしてみせるのだから――何故、それが出来ないか。翔は、恐らく萎縮しているのだろう、と考えた。
と、言う事は・・・きっかけさえ掴めれば出来る筈だ。そして、１度、出来さえすれば
自信がつく。自信がつけば、変に萎縮する事もない。
その為には――翔には考えがあった――これ以上の訓練は、今の所は無駄だ。翔は訓練を中止させた。
厚木に戻り、早めの軽い食事をとって休憩。その間に、機の方は燃料補給、点検、整備と午後からの訓練に備えて準備に余念がない。
その間、真樹子には何の指示もなかった。
先刻はなんでいきなり中止になんかなったんだろう？と、真樹子は訝ったが、翔からは何の言葉もない。
――あまりの無様さに、翔が怒るを通り越して呆れたのでは・・・と、不安を覚えさえした程だ。
真樹子にとっては訳の判らないうちに、再び発進の時刻となった。真街子はキー８３にひとり乗り込み、漸く雲の切れた空へと舞い上がる。翔はギュンターと共に「ムスタング」で、その後を追う。
訓練空域。
真樹子に身構える暇も与えず。背後から１機、突っ込んで来た。真樹子はスロットルを開き、パワーダイブ。スピードをつけ、旋回、パワーに任せて引き越こし、振り切ろうとする・・・が、振り切れない。喰い付いてくる。
（え？・・・まさか）
真樹子は首を回して確認。標的機じゃない――下がり気味の尖った機首。白い機体、赤い翼、胴体の赤い稲妻のライン――「飛燕」だ。
（陽さん!?・・・どうして？）
飛燕は翔に頼み込まれたのだ。真樹子をいたぶってくれ、と。とにかく、今の真樹子から実力を引き出すには、怒らせるしかない。そして、真樹子を本気で怒らせる事が出来るのは飛燕しかいない――と、まあ、理由はこんな所で、飛燕にしてみればあまり面白くはなかったが、翔に頼まれて仕方なく、と言う所だ。尤も、中華街で晩飯を奢ってやるから、と言った翔の言葉に魅力を感じたせいもある。
（さあ、怒れ怒れ）
飛燕は意地悪く真樹子を追い詰める。しかし、止めは刺さない。猫が鼠をいたぶる要領だ。決してすぐに仕留めようとはぜずに、小刻みに爪をかけ、時折逃がしてやる。
（こう言うのって趣味じゃないなあ・・・）
――翔に頼まれたんだから、悪く思わないでね、と飛燕は思う。これは、ストレス溜まるよ、可哀想に、とも思った。
飛燕がキー８３を逃がす。と、それっ、とばかりに「ムスタング」と「コルセア」が襲いかかり、交互にヒットを奪う。再び「飛燕」がキー８３を捉え、小刻みにヒット。
・・・そんな事を繰り返すうち、真樹子の飛び方がだんだん激しくなってきた。
怒ってきたな、と飛燕はほくそ笑む。これで、漸く思う壷にはまって来たな、と思う。 ――そして。
「この・・・もう怒ったからっ」真樹子の恕鳴り声が、レシーバー越しに飛燕の耳を打った。「下りろっ！ぶん殴ってやるっ!!」
これには、さすがの飛燕も少々面食らった。
（あんたねー、下りろったって・・・下は海だよ）
少しやり過ぎたかな、と後悔したが、怒鳴りつけられて黙っていられる飛燕ではない。
「ヘーんだ、やれるもんならやってみなっ!!」
・・・売り言葉に買い言葉だ。
（まるで喧嘩だな）
これには、このやりとりを傍受していた翔も苦笑せざるを得ない。
真樹子は、キー８３を全力上昇させて２機の標的機を振り切った。相手は飛燕のみ。５０m程後方に、ぴたりとついてくる飛燕を振り切ろうと、懸命の機動を続ける。
パワーに任せて垂直上昇、テイルスリップ気味の体勢から切り返して反転降下、加速してプルアップ。スプリットＳだ。そして、インメルマンターン。パワーと上昇カを武器とした縦の面の空戦で飛燕を翻弄しようとする。
（は・・・やるじゃない）
飛燕は感心した。――さすがに翔が仕込んだだけの事はある。基礎がしっかりしているから、きっかけさえあれば一気に開花する。そのきっかけが、たとえ怒りに任せての暴発であろうとも・・・
真樹子の動きは素早い。そして、ダイナミックだ。
キー８３の性格自体がそうなのだろうが、繊細さなどまるで感じられない飛行ぶりだ。
大きく尻を振り、派手にベイパーを引き摺ってターン。そして、切り返し。
（疾い・・・！）
これには翔も驚いた。――ひょっとしたら俺より素早いかもしれないぞ、とさえ思った程だ。
だが、動きそのものはラフだ。無駄も多い。しかし、今はそのラフな動きが飛燕のアタックをかわす上で有利に働いていた。
――飛燕と言う女は、完全に攻撃型の人間である。だが今は、その本能に急き立てられて逸る心を抑えて、スロットルを戻す。
「ボブ、ヒュー・・・！」
・・・交替だ、と告げる。飛燕は一旦、空戦空域から、退く。そこヘ、２機の標的機が突っ込む。今度は、真樹子も逃げるばかりではない。応戦する。
それから１０分。真樹子はなんとか４つのヒットを得た。受けたダメージは５つ。そのうち４つまでは飛燕にとられたものだ。
――まあ、こんな所だろうな。やれば出来る、って事さえ判れば、それでいい・・・翔は、ひとり頷くと飛燕を呼び出す。
「飛燕・・・ありがとう。もう充分だ」
「どういたしまして」
ほっとした途端に、膝頭に鈍い痛みが食い込んだ。――限界か？と、舌打ちする飛燕だが、その時、キー８３が背後から襲いかかってくるのを察して、反射的に退避に移る。
「――ボブ！カバー頼む」
ボブ・ブラウンの「ムスタング」がキー８３の背後へと回り込む。真樹子はそれを嫌い、反転。その間に、飛燕はその場から脱出する。
飛燕は一足先に厚木へと戻っていった翔の後を追うようにして北へと、飛ぶ。キー８３は？と幾度か後ろを振り返っては見たが、その姿はない。ボブとヒューが上手く引き留めてくれたのだろう、と飛燕は判断した。
（・・・にしても、どうにかならないものかな、こいつは）
思い出したようにに痛む左漆をいまいましげに叩く――こいつは、爆弾抱え込んでいるようなもんだな、と苦々しく思う。
湘南の海岸線が近付く。
・・・ふと、飛燕は背中に妙な感じを覚えた。
（殺気？）
反射的にスティックを倒し、降下に入ろうとした飛燕だが、ちょっと色気を出して後方を確認しようとした為、動作に微かな遅れをとる事になった。
（しまった！太陽・・・）
後方を確認しようとした飛燕が、振り向いた南の空は眩しく、目標を捕らえるどころか、一瞬、視界を失った。
「――貰ったあっ!!」
真樹子の歓声が耳を打つ。ＨＵＤに表示される被撃墜の表示・・・そして、傍らを誇らしげに駆け抜けていくキ−８３！
（・・・やられた）
半ば茫然としつつ、飛燕は思った。
あまりにも定石通りの後方からの一撃離脱攻撃だった。――見事過ぎて文句の言いようがないじゃない。と、内心、呟く。
飛燕に己を弁解する言葉はなかった。”喧嘩空戦”をその流儀とするＡＡＲＣでは、いかなる状況においても敗者に言い訳は許されなかった。――確かに、実戦で機銃弾を叩き込まれてからでは、どんな言い訳もしようがない。
「ま・・・ね。今日の所は負けておいてやるか」
飛燕は、次第に小さくなるキー８３の後姿に、呟いた。